第2話
私の名前はミユキ。かつて、ハルの隣にいた女。それは、世界の始まりから、ごく自然なことだった。私たちは、古い絵本の中の登場人物みたいに、いつも二人で一つの景色を作っていた。ハルの隣にいれば、雨の日も、風の強い日も、世界は不思議と穏やかで、予測可能なものだった。彼の笑顔は、冬の朝の静かな陽射しみたいに、私を温めてくれた。
高校を卒業して、私たちは二人で暮らし始めた。狭いアパートだったけれど、そこには私たちの全てがあった。壁に貼った未来の計画、二人で笑った些細な出来事、初めて一緒に作ったカレーの味。ハルは、いつも真剣に私の話を聞いてくれた。私の小さな悩みも、大きな夢も、まるで自分のことのように大切にしてくれた。彼との未来は、まっすぐに伸びた一本道みたいに思えた。迷うことも、立ち止まることもなく、ただ一緒に歩いていけば、きっと幸せな場所にたどり着ける。そう信じていた。
でも、いつからだろう。そのまっすぐな道が、少しずつ霞んで見え始めたのは。ハルの優しさ、彼の変わらない愛情が、まるでそこにあるのが当たり前の空気みたいに、私の意識から薄れていった。日常は穏やかで、それは確かに幸福の形だったはずなのに、心のどこかに、小さな穴が空いたような感覚があった。もっと、何か、予測不可能な刺激が欲しい。そんな、自分でも持て余すような感情が、心の奥底で、静かに波紋を広げていた。
そんな時、彼が現れた。タカシさん。職場の、少し年上の先輩だった。彼は、ハルとは違う種類の輝きを持っていた。洗練されていて、言葉の選び方がうまくて、私の知らない世界のことをたくさん知っていた。彼の話を聞いていると、まるで自分が、それまでいた場所から一歩外に出て、新しい景色を見ているような気になった。ハルとの安定した日々が、モノクロームに見え始めたとしたら、タカシさんと過ごす時間は、鮮やかな色彩に満ちているように感じられた。
最初は、ただの好奇心だったのかもしれない。少しだけ、ハルには内緒で、彼と個人的なメッセージのやり取りをするようになった。それは、まるで禁断の果実に手を伸ばすような、甘く、少しだけ背徳的な感覚だった。そして、その好奇心は、あっという間に、止められない衝動へと変わっていった。
タカシさんに誘われて、二人で食事に行った夜。ハルからのメッセージに、既読をつけずに鞄にしまった。彼の優しい言葉を見るのが、なぜか辛かった。タカシさんの隣にいる自分は、少しだけ違う人間になったような気がした。そして、その夜、私は、取り返しのつかない過ちを犯した。
ハルへの罪悪感で、胸が張り裂けそうだった。でも、タカシさんと一緒にいるときは、その罪悪感が、不思議と高揚感に変わった。彼は、私の欲しい言葉をくれた。私の不安を、一時的に忘れさせてくれた。ハルには言えない悩みも、タカシさんには話せた。それは、彼が私のことを、ハルが知っている私とは違う、新しい私として見てくれているように思えたからだ。
でも、ハルは、全てに気づいていた。当然だ。長年一緒にいたのだから、私の小さな変化にも気づかないはずがない。ある日、彼は、私のスマートフォンを手にしていた。画面に表示されていたのは、タカシさんからの、甘い言葉だった。
彼の顔を見た瞬間、世界の音が一瞬で消えた。彼の瞳の中に映る、信じられないものを見るような、深く傷ついた光。私は、ただ泣き崩れることしかできなかった。謝罪の言葉を繰り返すことしかできなかった。でも、その言葉が、彼の心に届いていないことを知っていた。私の犯した裏切りは、言葉でどうこうできるレベルを、はるかに超えていた。
別れは、呆気なかった。ハルは、怒鳴ることもなく、ただ静かに、私から離れていった。彼のその静けさが、何よりも私を打ちのめした。私の荷物をまとめながら、彼の後ろ姿を見るのが辛かった。出て行った後の部屋は、彼という存在が消えたことで、がらんとした、見知らぬ場所のように感じられた。そこには、私自身が壊してしまった、かけがえのない日々の残骸が転がっているだけだった。
ハルと別れた後、私はタカシさんと一緒にいた。彼は、僕と一緒なら、もっと自由に生きられる、君はもっと輝ける、と言った。私は、その言葉に縋りついた。ハルを失った穴を、タカシさんで埋めようとした。でも、一緒に過ごす時間が長くなるにつれて、彼の別の顔が見え始めた。仕事の話ばかりで、私の話には上の空。私が少しでも他の男性と話すと、不機嫌になる。まるで、私を自分の所有物であるかのように扱うようになった。私が、彼にとってただの遊び相手だったのだと気づいた時、胸に深い絶望が広がった。
そして、タカシさんが、仕事で大きな不正に関わっていたという話を聞いた。あっという間に彼は会社を解雇され、社会的な信用も失ったという。結婚していた奥さんからは離婚され、子供とも会えなくなったと聞いた。彼の、まるで絵に描いたような転落を知った時、私は何も感じなかった。それは、まるで遠い国で起こった、自分とは関係のないニュースを聞いたような感覚だった。そして同時に、ぞっとするような寒気を感じた。彼が破滅したことで、私の中に、何かが決定的に壊れた気がしたのだ。
共通の友人から、タカシさんの転落は、ハルの仕業かもしれないと聞いた。最初は信じられなかった。あの優しいハルが、そんなことをするはずがない、と。でも、点と点が線になっていくように、私は全てのことに気づいてしまった。タカシさんが私に近づいてきたのは、彼の仕事に関わる、ある目的のためだったのかもしれない。そして、それに気づかず、私はハルという、かけがえのない存在を、自分の手で壊してしまったのだ。利用されていたのは、私の方だった。そして、私が失ったものは、タカシさんの失ったものよりも、はるかに大きかった。後悔の念が、津波のように私を飲み込んだ。あの頃に戻りたい。ハルと二人で笑い合っていた、あの何もかもが輝いていた頃に。
いても立ってもいられず、ハルに連絡をした。震える指で、彼の電話番号を押した。長い呼び出し音の後、彼の声が聞こえた時、胸が締め付けられるような痛みが走った。
「会ってほしい」
そう伝えると、彼は短い沈黙の後、承諾してくれた。指定されたカフェで、彼の姿を見た時、私は息を呑んだ。以前よりも痩せて、どこか遠い場所を見ているような目。彼の隣にいたはずの私の場所は、もう、そこにはなかった。
「ハル…」
私の声は、思ったよりも小さかった。
「ごめんなさい…本当に、ごめんなさい…」
一度口にすると、謝罪の言葉が止めどなく溢れてきた。泣きながら、彼に許しを請うた。
「タカシさんのこと…聞いたわ。あの人は、私を…」
私の言葉を、彼は無感情に遮った。
「どうでもいい」
その声は、まるで氷のように冷たかった。
「君が誰に寝取られようと、あの男がどうなろうと、もう僕には関係ないことだ。何もかも、手遅れなんだよ」
彼の言葉が、私の胸に突き刺さった。顔を上げると、彼の瞳が、かつての私に向けられていた愛情や優しさを、完全に失っているのが分かった。そこにあるのは、冷たい、無関心な光だけだった。
「あの頃に戻りたい…あなたと二人で、笑い合ってた頃に…」
それは、私の、心からの叫びだった。
「無理だ」
彼は、一切の感情を交えずに言い放った。
「僕たちのあの頃は、君が自分の手で、粉々に砕いてしまったんだ。もう二度と、元に戻ることはない」
彼の言葉に、私は打ちのめされた。私の選んだ道が、どこに繋がっていたのか、その瞬間に悟った。それは、ハルとの未来ではなく、ただ、絶望という名の深い穴へと続く道だった。後悔の念に、全身が支配された。でも、もう遅い。彼の言う通り、全てが手遅れだった。
カフェを出て、一人、雨の中を歩いた。体は冷え切っていたけれど、それ以上に、心の奥底が凍りついていた。因果応報。それは、私が犯した罪に対する、あまりにも当然の報いだった。ハルを裏切り、かけがえのないものを失った。タカシさんも、破滅した。私が手に入れたかった「刺激」は、結局、私を深い絶望へと突き落としただけだった。
白詰草の花冠を作って、彼の頭に乗せてあげたこと。二人で見た、流れ星。小さなアパートで、笑い合った日々。全てが、遠い、手の届かない記憶になってしまった。私は、自分自身の過ちによって、最も大切なものを失ったのだ。残ったのは、後悔という名の、降りやまない雨と、決して埋まることのない、心の穴だけだった。
私はこれからも、この後悔を抱えて生きていくのだろう。ハルは、あの冷たい瞳のままで生きていくのだろう。そして、タカシさんもまた、どこかで彼の地獄を生きているのだろう。これが、私の選んだ道、そしてそのあまりにも残酷な結末だった。二度と交わることのない、悲しい、煉瓦でできた迷宮のような人生が、私を待ち受けていた。外は、ただ、静かに、後悔の雨が降り続いていた。