第4話
あの雨の日、カフェを出て、僕は雨の中を一人歩いた。ミユキは絶望し、タカシは破滅した。僕の復讐は完遂されたはずだった。でも、心の中は、まるで使い古された井戸のように、からっぽだった。満たされるどころか、虚無感という名の冷たい水が、じわじわと僕を満たしていくようだった。あれほど強烈だった憎しみも、復讐を遂げた達成感も、全てが泡のように消え去った後には、何も残らなかった。
それからの数年間、僕は、文字通り地獄の中にいた。それは、火炎が燃え盛るような派手な地獄ではない。ただ、全ての色が失われた、静かで冷たい地獄だった。朝起きて、歯を磨き、コーヒーを淹れ、会社に行く。仕事をし、家に帰り、食事をする。そして、眠る。その一つ一つの行為に、意味を見出すことができなかった。まるで、ゼンマイが切れた古い人形のように、ただ決められた動作を繰り返しているだけだった。
ミユキがどうしているのか、タカシがどうなったのか、時々耳に入ってくることもあった。ミユキは、実家に戻り、誰とも連絡を取らずに塞ぎ込んでいるとか。タカシは、日雇いの仕事で食いつないでいるとか。彼らがそれぞれの地獄を生きていると聞いても、僕の心は動かなかった。かつてあれほど激しく憎んでいた彼らに対して、何も感じなくなっていた。憎しみさえも、僕の中から消え去っていた。それは、ある意味で、最も深い絶望だったのかもしれない。感情が、完全に凍結してしまったかのようだった。
部屋の空気はいつも淀んでいて、壁は僕自身の内面を映し出しているかのように灰色だった。古いジャズレコードをかけても、その音はただのノイズに聞こえた。何を読んでも、言葉は活字の羅列でしかなかった。世界は、僕の外側で、僕とは無関係に動いているようだった。
それでも、時間は、容赦なく過ぎていった。季節は巡り、窓の外の景色は少しずつ変化した。アスファルトの隙間から、名前も知らない雑草が生えてきたり、電柱に新しい広告が貼られたりした。そんな、取るに足らない変化を、僕はただぼんやりと眺めていた。
ある日、偶然、小さな古本屋に立ち寄った。目的もなくぶらついていたとき、一冊の本が目に留まった。それは、僕が子供の頃に読んだ、古い海外の小説だった。埃をかぶったその本を手に取ると、本の匂いがした。インクの匂いと、紙の匂いと、そして、遠い記憶の匂い。家に持ち帰り、ページを開いたとき、止まっていた僕の中の何かが、ほんの少しだけ動き出したのを感じた。物語を読むことに、久しぶりに集中できた。それは、長い間、僕が忘れていた感覚だった。
それから、僕は時々、その古本屋に通うようになった。店主は、無口で、少し偏屈そうに見えたが、本の趣味は良かった。彼と、ほんの短い言葉を交わすようになった。お互いの名前も知らないまま、ただ本の話だけをする。それは、奇妙な、しかし心地よい関係だった。
ある週末、僕は一人で電車に乗って、海を見に行った。何年も、そういうことをしていなかった。海岸に打ち寄せる波の音を聞きながら、遠く水平線を眺めていた。寄せては返す波のように、僕の心にも、何か新しいものが、ゆっくりと、しかし確実に流れ込んできているような気がした。それは、幸福というような大げさなものではなかった。ただ、凍りついていたものが、少しずつ溶け始めているような、そんな感覚だった。
新しい仕事も始めた。以前よりも、もう少しだけ、自分の興味のある分野に近い仕事だ。職場の人間関係は、あっさりとしていて、深入りすることはない。でも、それが今の僕には心地よかった。誰かと深く関わることへの、無意識の恐れがまだ残っているのかもしれない。
ミユキやタカシのことを思い出す頻度は、減っていった。彼らがどうなったのか、もう積極的に知りたいとは思わない。彼らは彼らの人生を生きているのだろう。そして、僕は僕の人生を生きなければならない。過去の傷が完全に消えたわけではない。時々、ふとした瞬間に、あの頃の光景や、胸の痛みが蘇ることはある。それは、古い傷跡のように、一生消えないのかもしれない。
でも、もう、その傷に支配されることはない。煉瓦の檻は、まだ僕の周りにあるのかもしれないが、その向こうに、少しだけ光が見えるようになった。それは、朝焼けのように鮮やかな光ではない。夕暮れ時のような、穏やかで、控えめな光だ。でも、その光の方へ、ゆっくりと、しかし確実に歩いていくことができるようになった。
それは、完全な幸福ではない。でも、地獄の中で空虚な日々を送っていた頃に比べれば、それは、確かに「幸せ」と呼べるものだった。一人でコーヒーを淹れて、好きな音楽を聴きながら本を読む。そんな、かつてミユキと夢見たような静かな日常が、僕一人の中に、少しずつ形作られていく。それは、あの頃とは全く違う意味合いを持っていた。失ったものはあまりにも大きい。でも、失った場所に、新しい何かを築き始めることはできるのかもしれない。そう思えるようになったのだ。煉瓦の檻の向こうに、微かな光が見える。僕は、その光の方へ、ゆっくりと歩き始めた。