第7話 サイドストーリー:堕ちた偶像の末路
薄暗いワンルームの自室。分厚い遮光カーテンを閉め切った部屋には、昼夜の区別すらない。
床には空き缶やコンビニ弁当のゴミが散乱し、鼻を突くような酸っぱい悪臭が漂っている。万年床となったベッドの上に寝転がり、俺、一ノ瀬拓海は虚ろな目で天井の染みを見つめていた。
枕元に放り投げたスマートフォンは、もう何日も鳴っていない。
かつては、画面を開けば無数のメッセージが並んでいた。サッカー部の仲間からの遊びの誘い、大学の女子たちからのチヤホヤするようなMINE、そして、誰よりも俺を気遣ってくれていた彼女、星野葵からの温かい言葉。
今の俺のスマホには、そのどれもが届かない。通知が来るのは、どうでもいいアプリの宣伝やニュース速報だけだ。
「……くそっ」
乾ききった唇から、かすれた声が漏れた。
寝返りを打つと、右足首に鈍い痛みが走った。怪我の治療のために通っていたリハビリも、もう二週間以上サボっている。どうせ治ったところで、俺が戻る場所なんてどこにもないのだから。
あの日。
夕暮れの公園で、葵に「もう遅い」と冷たく言い放たれたあの日から、俺の人生の歯車は完全に狂い、そして音を立てて崩れ去った。
俺は大学で、誰もが羨むような完璧なポジションにいたはずだった。
サッカー部のエースストライカー。次期キャプテン候補。ルックスも悪くなく、周囲からは常に中心人物として扱われていた。そして隣には、自慢の彼女である葵がいた。
すべてが順風満帆で、俺の人生は勝者のレールの上に乗っていると信じて疑わなかった。
だが、それはただの虚像だったのだ。
怪我によるスランプ。後輩の台頭。監督からの無言のプレッシャー。
『一ノ瀬ならやってくれる』という周囲の期待が、少しずつ俺の首を絞め始めた。弱音を吐くことは許されなかった。エースである俺は、常に強くて、自信に満ちていなければならなかったからだ。
葵の前でもそうだった。彼女は俺を『完璧な彼氏』として見ていた。彼女のあの純粋な、一点の曇りもない尊敬の眼差しが、俺には息苦しかった。
『俺はそんなに凄い奴じゃない』。そう言えればどんなに楽だっただろう。だが、俺は自分のちっぽけなプライドを守るために、葵の前で虚勢を張り続けた。
そして、そのプレッシャーから逃げるために、俺は最悪の選択をした。
葵の親友である、松下結衣。
彼女は俺の弱さを肯定してくれた。『無理しなくていい』と、甘い言葉で俺の傷を舐めてくれた。結衣と一緒にいる時だけは、エースとしての重圧から解放され、ただのダメな男でいることが許された。
それが底なしの沼だと気づきもしないまま、俺は一時的な快楽と安堵に溺れ、大切なものを自らの手で踏みにじったのだ。
その結果が、これだ。
葵に振られた数日後、俺はすがるような思いで結衣を呼び出した。
もう俺には結衣しかいない。お互いに傷を舐め合い、このどん底から這い上がるしかない。そう思っていた。
しかし、大学近くの薄暗いカフェで俺を待っていた結衣の目は、氷のように冷たかった。
『……何の用?』
『結衣、俺、葵に振られた。完全に終わったんだ。……なあ、俺たち、これからちゃんと付き合わないか? お前だけが、俺の理解者だ』
俺が必死にそう伝えると、結衣は鼻でふんと嗤った。
『は? 何言ってんの、あんた』
『え……?』
『あんたが葵に誤爆MINEなんてマヌケなことするから、私の立場まで最悪になったんじゃない。あんたのせいで、私が大学でどういう目で見られてるか分かってる?』
結衣の声には、明らかな憎悪が混じっていた。
葵が大学を休んでいる間、俺と結衣の浮気疑惑はあっという間にキャンパス中に広まった。
特に結衣に対する風当たりは苛烈だった。「親友の彼氏を寝取った最低な女」「匂わせ投稿でマウントを取っていたイタい女」。そんなレッテルを貼られ、結衣もまた周囲から完全に孤立していたのだ。
『私だって被害者よ! あんたが無理やり迫ってきたんじゃない。私はただ、相談に乗ってあげてただけなのに!』
『なんだと……!? お前だってノリノリだっただろ! 俺と会ってること、わざとSNSにアップして楽しんでたくせに!』
『うるさい! もう二度と私に連絡してこないで。あんたの顔なんて見たくもない』
結衣はそう吐き捨てると、テーブルにコーヒー代を叩きつけ、俺を残して店を出て行った。
残された俺は、周囲の客からの冷たい視線を浴びながら、ただ呆然と座り尽くすことしかできなかった。
逃げ場だったはずの結衣にとって、俺はただの「優越感を得るための道具」に過ぎなかったのだ。
葵という完璧な存在に勝つためだけの、都合のいいトロフィー。
それが無価値なガラクタだと分かった途端、彼女はためらいもなく俺を捨てた。
俺たちが共有していたと思っていたあの時間は、お互いのドロドロとした欲望をぶつけ合っていただけの、ひどく薄汚いものだったと思い知らされた。
そして、俺の転落はそれだけでは終わらなかった。
結衣との決裂からさらに数日後。
俺は現実から目を背けるように、サッカー部の練習グラウンドへと向かった。
葵や結衣を失っても、俺にはまだサッカーがある。ここで結果を出せば、またみんな手のひらを返して俺をチヤホヤするはずだ。俺はエースなんだ。
そんな都合のいい妄想にすがりつきながら、俺はスパイクの紐を結んだ。
しかし、グラウンドの空気は、以前とは全く違っていた。
俺がピッチに入っても、誰も声をかけてこない。
かつては「一ノ瀬さん、おはようございます!」と元気に挨拶してきていた後輩たちは、俺と目を合わせようともせず、そそくさと遠ざかっていく。
同級生のチームメイトたちも、遠巻きに俺を見ながらヒソヒソと耳打ちをしているのが分かった。
『おい、来たぜ。星野さんを裏切ったクズ』
『よく顔出せるよな。女関係で揉めて練習サボってた癖に』
『どうせ怪我も治ってないんだろ。もうあいつの時代は終わりだよ』
声には出さないものの、彼らの冷ややかな視線がそう雄弁に語っていた。
俺は唇を噛み締め、一人で黙々とウォーミングアップを始めた。実力で見返すしかない。そう自分を奮い立たせた。
だが、全体練習が始まると、俺は紅白戦のメンバーから完全に外されていた。
スタメンはおろか、控えチームのベンチにすら俺の名前はなかった。代わりにエースのポジションに入っていたのは、一つ下の後輩だった。
『監督! なんで俺が外されてるんですか!』
俺は耐えきれず、戦況を見つめる監督の元へ駆け寄って抗議した。
監督はゆっくりと俺の方を振り向き、冷ややかな、虫ケラでも見るような目で俺を見下ろした。
『一ノ瀬。お前、今自分がチームでどういう立場か分かっているのか』
『立場……? 俺は、怪我が治ればすぐにでも……』
『怪我の問題じゃない』
監督の低い声が、俺の言葉を容赦なく遮った。
『私生活の乱れは、必ずプレーに出る。お前のあの軽薄な騒動は、部の士気を著しく下げるものだ。それに、練習を無断で休んでおきながら、自分のポジションが保証されているとでも思っていたのか?』
『それは……!』
『お前にはもう、エースとしての自覚も、責任感も残っていない。チームの輪を乱すだけの存在だ。今のグラウンドに、お前の居場所はない』
目の前が真っ暗になった。
周囲の部員たちが、冷ややかな目で俺を取り囲んでいる。誰も俺を庇おうとしない。誰も俺を必要としていない。
怪我で焦っていたのも、プレッシャーに潰されそうになっていたのも、誰も理解してくれなかった。いや、理解しようと努力する価値すらないと切り捨てられたのだ。
俺は言葉を失い、逃げるようにグラウンドを後にした。
背中越しに聞こえてきた「自業自得だろ」「せいせいしたわ」という声が、俺の心に致命的なトドメを刺した。
すべてを失った。
彼女も、逃げ場も、そして俺のアイデンティティだったサッカーも。
俺に残されたのは、ただの「浮気をして親友に手を出したクズ男」という汚名だけ。
大学という狭いコミュニティの中で、俺の社会的な命は完全に絶たれたのだ。
それからというもの、俺は大学に行くこともなくなり、こうして薄暗い部屋で無気力な日々を送っている。
昼夜逆転の生活。酒とタバコとインスタント食品のゴミの山。
鏡に映る自分の顔は、かつての爽やかなスポーツマンの面影など微塵もなく、無精髭を生やした薄汚い負け犬の顔だった。
「……葵」
誰もいない部屋で、無意識にその名前を呼んでいた。
あんなに近くにいたのに。いつも俺の右隣で、太陽みたいに笑ってくれていたのに。
俺がどんなに機嫌が悪くても、冷たく当たっても、彼女は決して俺を見捨てようとはしなかった。
『拓海くん、無理しないでね』
あの優しい声が、今になって鮮明に脳裏に蘇る。
俺が本当に守るべきだったのは、ちっぽけなプライドなんかじゃない。葵のあの笑顔だったんだ。
プレッシャーに押し潰されそうなら、かっこ悪くてもいいから、葵にすべてを打ち明けて縋ればよかった。彼女なら、絶対に俺を笑ったりしなかった。ダメな俺も受け入れて、一緒に泣いてくれたはずだ。
それなのに、俺は彼女を信じず、裏切り、最も残酷な形でその心を壊してしまった。
後悔が、鋭いナイフのように俺の胸を何度も何度も突き刺す。
やり直したい。時を戻したい。あの日に帰って、誤爆なんてする前の自分を殴り殺してやりたい。
だが、時間は決して戻らない。葵の「もう遅い」という冷たい宣告が、それが覆ることのない真実であることを俺に突きつけている。
数日前のことだ。
部屋の食料が尽き、俺は這いずるようにして深夜のコンビニへ向かおうとした。
その時、アパートから少し離れた大学近くの通りで、俺は見てしまったのだ。
街灯の下を、並んで歩く二人の男女。
星野葵と、吉野亮太だった。
俺は反射的に電柱の影に身を隠し、息を殺して二人を見つめた。
葵は、俺と付き合っていた時に着ていたような、大人びた無理のある服は着ていなかった。少しゆったりとしたカジュアルなニットに、スニーカー。メイクも薄く、昔の彼女に戻ったようだった。
だが、その表情は……俺が見たこともないほど、自然で、柔らかく、そして心底幸せそうな笑顔だった。
吉野が何かを言うと、葵は声を上げて笑い、吉野の肩を軽く叩いた。
吉野は少し呆れたような顔をしながらも、その瞳はひどく優しく葵を見つめている。
二人の間には、誰にも入り込めないような、温かくて絶対的な信頼関係が築かれていた。
俺の隣にいた時の葵は、あんな風に笑っていただろうか。
いつも俺の顔色を窺い、嫌われないように必死に背伸びをして、どこか無理をして笑っていなかったか。
俺は彼女をアクセサリーのように扱い、吉野は彼女を心から大切にしている。
その決定的な違いが、痛いほどに分かってしまった。
吉野は、俺が葵を壊したあの絶望の中で、彼女の手を引き、救い出したのだ。
俺が逃げ出し、投げ出したものを、あいつは命懸けで拾い上げた。
今、葵の隣にいるのは俺ではない。彼女を本当に笑顔にできるのは、俺ではないのだ。
俺は声をかけることなど到底できなかった。
一歩でもあそこに近づけば、吉野に殺されるかもしれない。いや、葵のあの笑顔を一瞬にして恐怖に染め上げてしまう自分が、心底恐ろしかった。
俺は自分がひどくちっぽけで、薄汚いバケモノに思えた。
そのまま踵を返し、逃げるようにアパートへと走り出した。
涙がボロボロと溢れ出し、夜風に冷やされて頬を濡らした。
悔しいんじゃない。悲しいんじゃない。
ただ、自分がしでかしたことの重大さと、取り返しのつかない喪失感が、巨大な波となって俺を飲み込んでいったのだ。
「ああああああっ……!!」
部屋に戻った俺は、誰に聞かれることも気にせず、獣のように泣き叫んだ。
ベッドの上の枕を壁に叩きつけ、空き缶を蹴り飛ばし、自分の髪を狂ったように掻き毟った。
因果応報。
自業自得。
どんな言葉を並べても、今のこの圧倒的な絶望を表現することはできない。
俺はすべてを手に入れていた。それなのに、自分の弱さと愚かさのせいで、すべてをドブに捨てたのだ。
「ごめん……葵、ごめん……っ」
いくら謝っても、その言葉は誰にも届かない。
虚像のエースだった男は、今や誰からも見向きもされない、底辺を這いずるだけの負け犬に成り下がった。
外の世界では、葵と吉野が新しい時間を刻み始めている。結衣もまた、別の場所で生きているだろう。サッカー部も俺抜きで前へと進んでいる。
俺だけが、この暗くて臭い部屋の中で、止まった時間の中に取り残されている。
これから先、俺の人生に光が射すことなど二度とないだろう。
壁に寄りかかり、ずるずると床に崩れ落ちた俺は、膝を抱え込み、ただ無意味な涙を流し続けることしかできなかった。
これが、甘い誘惑に負け、大切なものを裏切った男の、惨めで空虚な末路だった。