第1話 すれ違いのディスタンス
深夜の冷たい風が、薄手のパーカーをすり抜けて肌を刺す。街灯にまばらに照らされた人気のないアスファルトの道を、俺、吉野亮太は一人で歩いていた。右手には、コンビニで買ったばかりの缶コーヒー。しかし、ぼんやりと考え事をしながら歩いているうちに、それはすっかり温くなってしまっていた。
温くなった缶コーヒーをぎゅっと握りしめ、ふと見上げた夜空には星一つ見えない。重く垂れ込めた雲が、今の俺の心境をそのまま映し出しているようだった。無意識のうちに、また深いため息が口からこぼれ落ちる。
「……何やってんだろ、俺」
誰に宛てたわけでもない独り言は、静寂の夜の空気に虚しく吸い込まれて消えた。脳裏に浮かぶのは、見慣れた、けれど今は遠くなってしまった一つの笑顔。俺には、幼馴染がいる。星野葵。太陽みたいに明るくて、誰にでも優しくて、そして、俺がずっと片想いをしていた女の子だ。
俺たちは家が隣同士で、物心ついた時からずっと一緒にいた。幼稚園のお遊戯会でも、小学校の運動会でも、中学校の卒業式でも、振り返ればいつも葵がそこにいた。彼女は昔から周囲の中心にいるような存在で、誰とでもすぐに打ち解ける才能を持っていた。対して俺は、昔から人付き合いが苦手で、本を読むのが好きな目立たないタイプの人間だった。正反対の二人だったが、なぜか俺たちはウマが合い、高校を卒業して同じ大学に進学するまで、当たり前のように隣を歩いていた。
俺にとって葵は、ただの幼馴染以上の存在だった。彼女の笑った顔が好きだった。少し抜けているところも、困った時に俺を頼ってくれるところも、全部が愛おしかった。いつか、この関係が変わる日が来るかもしれない。いや、俺の努力次第で変えなければいけない。そう思っていた時期もあった。
けれど、その淡い期待は、大学に入学して間もなく無残に打ち砕かれた。
葵が変わったわけではない。ただ、彼女の周りの環境が、俺たちの関係を少しずつ、しかし決定的に変えていったのだ。華やかな大学生活に馴染もうと必死になっていた葵は、新しい友人たちとの付き合いを優先するようになった。俺はそれを寂しく思いながらも、「彼女の世界が広がっている証拠だ」と自分に言い聞かせて、少しだけ距離を置くようにした。
それが、間違いの始まりだったのかもしれない。
数日前のことだ。
俺は大学の広々とした食堂の片隅で、一人で昼食をとっていた。昼時の食堂は学生たちでごった返しており、あちこちから活気のある笑い声や話し声が響き渡っている。俺は手元のスマートフォンでニュース記事を流し読みしながら、機械的に定食を口に運んでいた。
ふと、周囲の喧騒とは違う、華やかな笑い声が耳に届いた。顔を上げると、食堂の中心近くの大きなテーブルに、ひときわ目立つグループが陣取っていた。
その中心にいたのは、サッカー部のエースとして名高い一ノ瀬拓海だった。整った顔立ちに、スポーツマンらしい引き締まった体躯。彼が何かを言うたびに、周りの友人たちは楽しそうに笑い声を上げている。そして、その拓海の隣で、誰よりも幸せそうに微笑んでいる女の子がいた。
星野葵だった。
彼女は、俺の知らない服を着て、俺の知らないメイクをして、俺の知らない顔で笑っていた。拓海が冗談めかして葵の頭を撫でると、葵は少し頬を赤らめて照れくさそうに笑う。その二人の姿は、誰の目から見ても完璧な「お似合いのカップル」だった。
胸の奥を、冷たい刃物でえぐられるような痛みが走った。
分かっていたことだ。葵が拓海と付き合い始めたことは、本人から直接聞いていた。その時、俺は「おめでとう、よかったな」と、心にもない嘘をついて笑って見せた。葵の幸せを邪魔する権利なんて、俺にはないからだ。
でも、実際に目の前で二人の幸せそうな姿を見せつけられると、無理やり蓋をしていた感情がどろどろと溢れ出してきそうになった。
(やっぱり、俺じゃダメなんだ)
拓海と俺では、住んでいる世界が違いすぎる。彼のように、葵を華やかな世界に連れ出し、周囲から羨望の眼差しを向けられるような存在に、俺は絶対になれない。真面目なだけが取り柄の、冴えない俺なんかといるより、拓海と一緒にいる方が葵は絶対に幸せになれる。
そう自分に言い聞かせることで、俺は傷つくことから逃げていた。葵のことが好きだったからこそ、彼女にふさわしくない自分を突きつけられるのが怖かったのだ。
その時、ふと葵がこちらを振り向いた。
一瞬、視線が交差する。葵の瞳が小さく見開かれ、そして、彼女の表情からスッと笑顔が消えた。周囲の盛り上がりから一人だけ切り離されたように、葵は何か言いたげな、どこか寂しそうな瞳で俺を見つめた。
俺は反射的に目を逸らしてしまった。
今、どんな顔をして彼女を見つめ返せばいいのか分からなかったからだ。逃げるように席を立ち、食器を返却口に押し込んで、足早に食堂を後にした。背中越しに「葵、どうした?」という拓海の声が聞こえたような気がしたが、俺は振り返らなかった。
あの日以来、俺は葵を徹底的に避けるようになった。キャンパスで見かけても遠回りをして視界に入れないようにし、たまに来るメッセージにもスタンプ一つで返すか、適当な理由をつけて会話を打ち切った。彼女の幸せな姿を見るのも、彼女が時折見せる寂しそうな顔を見るのも、どちらも俺の心を深くえぐったからだ。
「……これでいいんだ」
温くなった缶コーヒーを一口飲み込みながら、俺は冷たい夜道で再び独り言をつぶやいた。
コーヒーの苦味が、喉の奥に嫌な後味を残す。葵は拓海と幸せになる。俺はただの幼馴染として、遠くからそれを見守っていればいい。それが、俺にできる唯一の、そして正しい選択なのだと。
そう、諦めていた。諦めることで、自分を守っていた。
しかし、その決意を根底から揺るがす出来事が起きたのは、今日の午後のことだった。
大学の講義が終わり、友人の木村と一緒にキャンパスを歩いていた時のことだ。木村は情報通で、大学内のあらゆるゴシップに精通している男だった。俺はいつも彼の話を適当に聞き流しているのだが、その時彼が口にした名前に、俺の足はピタリと止まった。
「そういやさ、サッカー部の一ノ瀬っているじゃん? あいつ、最近ちょっとヤバいらしいぜ」
「……ヤバいって、何が?」
俺は平静を装いながら、木村に聞き返した。声が少し震えていたかもしれない。
「いや、単なる噂なんだけどさ。一ノ瀬、最近怪我してスタメン落ちしてるだろ? それでかなり荒れてるらしくてさ。で、夜の繁華街で、彼女じゃない別の女と腕組んで歩いてたって目撃情報があるんだよ」
「別の女……? それ、見間違いじゃないのか。あいつには、星野っていう彼女がいるはずだろ」
「だからヤバいって言ってんじゃん。浮気だよ、浮気。スポーツマンで爽やか系売ってるけど、裏じゃ何やってるか分かんないぜ。星野さんだっけ? あの子も可哀想になあ。一ノ瀬に遊ばれて捨てられるんじゃないの?」
木村は無責任に笑いながらそう言った。俺は彼を殴り飛ばしたい衝動に駆られたが、ぐっと拳を握りしめて耐えた。
「……用事思い出したから、俺、帰るわ」
「えっ、おい吉野!? お前これからカラオケ行くって……」
木村の制止の声も聞かず、俺は走って大学を飛び出した。
拓海が、浮気?
そんなはずはない。あんなに幸せそうに笑い合っていたじゃないか。葵をあんなに笑顔にできる男が、彼女を裏切るなんてことがあるはずない。
だが、胸の奥で嫌な動悸が止まらなかった。もし、その噂が本当だとしたら? 葵はどうなる? 彼女は「他人に嫌われたくない」という思いが人一倍強い。拓海に見捨てられることを恐れて、無理をしていないだろうか。独りぼっちになるのが怖くて、本当は傷ついているのに、気づかないふりをしているのではないか。
気づけば、俺はアパートの自室に帰り着き、ベッドの上に放り出したスマートフォンを睨みつけていた。
現在時刻は、深夜の二時を回ろうとしている。コンビニからの帰り道で冷え切った体は、暖房の効いた部屋にいても一向に温まらない。
スマートフォンの画面には、MINEのトーク画面が開かれている。相手は、葵。
最後やり取りをしたのは、もう一ヶ月も前のことだ。葵からの「最近、忙しいの?」というメッセージに対し、俺は「ああ、課題が多くて」とだけ返信し、そこから会話は途絶えている。
連絡を、取るべきか。
俺が口を挟むことではないかもしれない。彼氏の浮気疑惑なんて、ただの噂かもしれないし、幼馴染の俺が首を突っ込めば、かえって葵を傷つけることになるかもしれない。
でも、食堂で一瞬だけ目が合った時の、あの葵の寂しそうな顔が脳裏に焼き付いて離れないのだ。
俺が距離を置いたことで、葵を孤独にさせてしまったのではないか。彼女が拓海に依存するようになったのは、俺が彼女の手を離してしまったからではないのか。
「……クソッ」
俺は乱暴に頭を掻き毟り、意を決して画面をタップした。文字を入力する指が震える。何度も書いては消し、消しては書きを繰り返した。
『元気か?』
いや、違う。
『最近、拓海とうまくいってるか?』
重すぎる。
迷った末に、俺がようやく送信できたのは、情けないほどに平凡な、短い一文だった。
『こんな時間に起きてるか? 最近、全然話してないから、ちょっと気になって』
送信ボタンを押した瞬間、後悔が押し寄せてきた。こんな深夜に急にメッセージを送るなんて、不自然極まりない。葵は拓海と一緒に寝ているかもしれないし、そもそも俺からの連絡なんて迷惑かもしれない。
早く既読がつかないかと思う気持ちと、一生未読のままでいてほしいと思う気持ちが交錯し、心臓が痛いほど脈打つ。
五分が経過した。既読はつかない。
やっぱり寝ているんだろう。明日、適当に誤魔化そう。そう思ってスマートフォンをベッドの脇に投げ捨てようとした、その時だった。
ブッ、と短い振動音が部屋に響いた。
画面を見ると、葵からの新着メッセージの通知が表示されていた。
俺は弾かれたようにスマートフォンを手に取り、画面を開いた。
『起きてるよ! 亮太からライン来るなんて珍しいね。びっくりした(笑)』
文面だけを見れば、いつも通りの明るい葵だった。俺は少しだけホッと胸を撫で下ろした。だが、すぐに続くメッセージを見て、俺の表情は強張った。
『私も、亮太に会いたかったな』
会いたかったな。
その短い一言に、どれだけの感情が込められているのか、俺には計り知れなかった。普段の葵なら「私も暇だったからちょうどよかった!」くらいに返すはずだ。こんな、弱音を吐くような、どこか縋るような言葉を使うのは、彼女が本当に追い詰められている時だけだ。
俺は昔から葵を見てきた。彼女が無理をして明るく振る舞う時の癖も、強がっている時の文面も、痛いほどよく知っている。
この文字の向こう側で、葵は泣いているのではないか。そう思えてならなかった。
『何かあったのか? 悩みがあるなら、聞くぞ』
俺はすぐにそう返信した。これ以上、逃げるわけにはいかなかった。俺が傷つくのを恐れて葵を避けていた間に、彼女が誰にも言えない苦しみを抱え込んでいたのだとしたら、俺は絶対に自分を許せない。
しかし、そのメッセージに既読がつくことは、その夜はもう二度となかった。
画面を見つめたまま、俺は深い闇の中に沈んでいくような感覚を覚えた。
拓海の浮気疑惑。葵の不自然なメッセージ。そして、既読のつかない画面。
何かが、確実に狂い始めている。俺たちが当たり前のように過ごしてきた時間が、音を立てて崩れ去ろうとしている。
胸の奥で渦巻くのは、自分には釣り合わないと諦めていた劣等感と、それでも彼女を守りたいという純粋な願い。そして、もし拓海が本当に葵を裏切っているのだとしたら、今度こそ俺が葵の隣に立てるのではないかという、ひどく歪んだ、醜い期待だった。
「葵……」
誰にも届かないその名前を口にした時、俺の心の中で、鍵をかけて封印していたはずの感情が、静かに、しかし確実に息を吹き返し始めていた。