偽りのハッピーエンドに、弔いのキスを

第1話 愛した家族と過ごす最後の一週間

カシャッ、と乾いたシャッター音が、初夏の柔らかな空気に溶けていく。
ファインダー越しに見える世界は、いつだって俺、織部奏(おりべかなで)にとっての宝物だった。

庭の芝生の上で、妻の紗良(さら)が楽しそうに笑っている。その傍らで、八歳になる娘の結愛(ゆあ)が、シャボン玉を追いかけてはしゃいでいた。虹色にきらめく儚い球体と、それを追いかける天使。そして、その二人を優しく見守る聖母。少し気障な表現かもしれないが、俺の目には本気でそう映っていた。

「パパー、見てー!大きいの作れたよ!」

結愛が振り返り、満面の笑みで手招きをする。俺はカメラを首から下げ、笑顔で応えた。

「すごいな、結愛。シャボン玉のプロだ」
「えへへー」

照れくさそうに笑う娘の姿を、もう一度フレームに収める。この何気ない日常。それが俺のすべてであり、守るべきものだった。中堅システム開発会社でSEとして働く俺の毎日は、決して楽なものではない。けれど、この二人の笑顔があるから、どんな困難も乗り越えられる。心からそう信じていた。

「あなた、ずっと撮ってないでこっち来なさいよ。結愛が呼んでるわ」

紗良が少し呆れたように、でもその声には確かな愛情が滲んでいて、俺は心地よさを感じながら二人の元へ歩み寄った。これが俺の幸福の形。この穏やかな時間が、永遠に続くのだと、疑いもしていなかった。

週が明けると、俺がリーダーを務める大規模な金融システムの開発プロジェクトは、最終段階の佳境を迎えていた。連日の残業と休日出勤。心身の疲労はピークに達していたが、プロジェクトの成功というゴールは目前だった。

そんな多忙な日々の中、やけに親しげに声をかけてくる男がいた。
営業部のエース、天城櫂(あまぎかい)。

「織部さん、お疲れ様です。また遅くまで?真面目すぎますよ」

コーヒーの紙コップを片手に、彼はいつも爽やかな笑顔を浮かべていた。社内でも女性社員からの人気は絶大で、取引先からの信頼も厚い。非の打ち所がないエリート。俺のような根暗なエンジニアとは住む世界が違う人間だと思っていた。

彼とは、数ヶ月前に町内会のイベントで偶然顔を合わせ、互いの家族を紹介したことで、プライベートでも付き合いが始まっていた。子供の年齢が近いこともあり、週末には合同でバーベキューをすることもある。紗良も結愛も、彼のスマートな立ち振る舞いと人当たりの良さにすっかり魅了されていた。

「天城さん、本当に素敵な人よね。仕事もできて、家族サービスも完璧なんて」

紗良は、彼を褒める時いつも目を輝かせている。その横で、結愛もこくこくと頷く。

「かいおじちゃん、かっこいいもん!」

それは俺にとって、少しだけ胸がちくりと痛む瞬間でもあった。口下手で、気の利いたことも言えない自分と、彼を比べてしまっているのだろうか。そんな小さな嫉妬心が、心の隅に芽生え始めていた。

ある日の夜、終電間際のオフィスで、俺は一人デバッグ作業に没頭していた。ふと、背後から櫂の声がした。

「織部さん、まだいたんですか。すごい集中力ですね」
「天城さんこそ。営業も大変だな」
「ええ、まあ。……そういえばこの間、駅前で紗良さんと結愛ちゃんに会いましたよ。二人とも元気そうで何よりです」
「そうか。いつも気にかけてくれてありがとう」

当たり障りのない会話。だが、その時の櫂の目が、ほんの一瞬、昏く光ったのを俺は見逃さなかった。気のせいだろうか。疲れているのかもしれない。俺は深く考えず、再びモニターに向き直った。

その週末、家に帰ると紗良の様子が少しおかしかった。

「あなた、会社で何かあったの?」
「え?何かって?」
「……天城さんが心配してたわよ。最近、プロジェクトのことで少し孤立してるみたいだって。追い詰められてるんじゃないかって」

櫂が、そんなことを。俺が知らないところで、彼は何を話しているんだ?

「孤立なんてしてない。確かに忙しくて大変だけど、チームは上手くいってるよ」
「でも……なんだか最近のあなた、少しピリピリしてる。前はもっと優しかったのに」

紗良は不安げに眉をひそめた。俺は疲労から、少し無愛想になっていたのかもしれない。家族に心配をかけていたことを反省し、その日はいつもより優しく紗良を抱きしめた。
だが、その時すでに、見えない亀裂は静かに広がり始めていたのだ。櫂という男が撒いた毒の種が、俺たちの足元で着実に芽吹いていることに、俺はまだ気づいていなかった。

そして、運命の日は唐突にやってきた。
月曜日の朝、出社するとフロアの空気が異様に張り詰めていた。何人もの役員が、俺たちの部署の会議室に集まっている。上司が血相を変えて俺の元へ走り寄ってきた。

「織部くん!君が開発した顧客管理システムから、昨夜、大規模な情報漏洩があった!」
「……は?」

何を言っているのか、理解が追いつかない。俺が作ったシステムは、幾重にもセキュリティ対策を施したはずだ。そんなはずはない。

「調査の結果、君のIDを使って、内部から不正なアクセスがあったことが確認されている。どういうことか説明したまえ!」

頭が真っ白になった。俺のID?昨夜は一日中、家にいた。パソコンにすら触れていない。

「待ってください!俺じゃありません!誰かが俺のIDを盗んだんです!」

俺は必死に訴えた。だが、すぐに開かれた緊急対策会議で提示された証拠は、あまりにも絶望的なものだった。
システムへのアクセスログ、遠隔操作に使われたプログラムの痕跡、そのすべてが、まるで教科書のように「犯人は織部奏である」と指し示していた。あまりに完璧すぎる証拠。それは、同じシステムを知り尽くした者でなければ到底不可能な、巧妙極まりない偽装工作だった。

嵌められた。
脳裏に浮かんだのは、いつも爽やかな笑顔を浮かべていたあの男の顔。だが、証拠がない。俺の言葉は、ただの醜い言い訳にしか聞こえなかった。

会社は、その日のうちに俺に懲戒解雇を言い渡した。それだけではない。漏洩した情報の価値を考えれば、損害賠償額は億を超えるだろうと、冷たく告げられた。

ふらふらと、まるで幽霊のような足取りで会社を出る。空は憎らしいほど青く澄み渡っていた。どうして。なぜ俺が。頭の中で、その言葉だけがぐるぐると回り続ける。
震える手で、紗良に電話をかけた。せめて、妻だけは。紗良だけは俺を信じてくれるはずだ。

『もしもし、あなた?どうしたの、こんな時間に』
「紗良……大変なことになった。会社を、クビになった」
『……え?』

俺は、電話口で必死に無実を訴えた。誰かに嵌められたんだ、俺は何もしていない、と。だが、紗良の反応は俺が期待していたものとは程遠かった。

『……やっぱり。天城さんの言ってた通りだったのね』
「え……?」
『あなたが、追い詰められてたって……。だからって、どうしてそんなことを!私たちの生活はどうなるの!結愛のことはどう考えてるのよ!』

電話の向こうから聞こえてくるのは、俺を信じる言葉ではなく、ヒステリックな詰問だった。紗良の頭の中では、櫂から事前に吹き込まれていた「奏は追い詰められている」という物語と、目の前の「夫が会社をクビになった」という事実が結びつき、完璧なストーリーとして完成してしまっていたのだ。

「違う!俺はやってない!信じてくれ!」
『信じられるわけないじゃない!もうあなたとは話したくない!』

一方的に切られた通話。スマホを握りしめたまま、俺はその場に立ち尽くした。世界から色が消えていく。信じていた妻からの、あまりにも無慈悲な拒絶。

それでも、家に帰らなければ。結愛に会いたい。娘の顔を見れば、まだやり直せるかもしれない。そんな僅かな希望を胸に、俺は重い足を引きずるように自宅へと向かった。

玄関のドアを開けると、リビングから話し声が聞こえる。紗良の嗚咽と、それを慰める優しい男の声。
その声の主が誰なのか、俺はすぐにわかった。

リビングの扉を、そっと開ける。
目に飛び込んできた光景に、俺は息を呑んだ。

ソファに座り、泣きじゃくる紗良の肩を、天城櫂が優しく抱き寄せている。そして、その櫂の膝の上には、結愛がちょこんと座っていた。まるで、それが本来の家族の形であるかのように。

俺の存在に気づいた結愛が、顔を上げる。その目に浮かんだのは、父親の帰りを喜ぶ光ではなく、得体の知れないものを見るかのような怯えの色だった。

「……パパ」

結愛は小さな声で呟くと、ぎゅっと櫂の背中にしがみついた。櫂は、そんな結愛の頭を優しく撫でながら、俺に向かって、憐れむような、それでいて勝利を確信したような歪んだ笑みを浮かべた。

「奏……」

紗良が、涙で濡れた顔で俺を見る。その目は、まるで汚物を見るかのように冷え切っていた。

俺は、声にならない声で娘の名前を呼ぼうとした。だが、それよりも早く、結愛がはっきりと口を開いた。
悪意のかけらもない、無邪気で、だからこそ世界で最も残酷な声で。

「パパなんか嫌い!あっち行って!」

その言葉が、俺の心臓を貫いた。
愛する娘からの、絶対的な拒絶。

カシャッ。
頭の中で、何かが砕け散る音がした。
ファインダー越しに見ていた、光に満ちた幸せな世界。それが、音を立てて崩壊していく。
ああ、そうか。俺の家族は、俺の人生は、今日、この瞬間に終わったんだ。
膝から力が抜け、俺はただ、その場に崩れ落ちることしかできなかった。