君が隣で喘いだ日、僕の世界は音を立てて終わった。だから全部、壊してあげる

第1話 無音のサヨナラ

午後三時を少し回った頃、僕は席を立った。

「すみません、課長。少し目眩がするので、本日は早退させていただいてもよろしいでしょうか」

眉間に皺を寄せ、モニターを睨んでいた三上課長が、大げさに顔を上げる。その目にはあからさまな不満の色が浮かんでいたが、部下の体調不良を無下にはできないと判断したのだろう。

「天羽か。大丈夫なのか?締め切り前だぞ」
「はい、申し訳ありません。ですが、少し休めば問題ないかと。明日は必ず、遅れを取り戻しますので」
「……そうか。まあ、無理はするなよ。お大事に」

形ばかりの気遣いの言葉を背に受け、僕は軽く頭を下げてオフィスを後にした。
体調不良、というのはもちろん嘘だ。僕の体は健康そのもので、むしろ心は浮き立つような高揚感に満ちていた。今日は火曜日。いつもなら、恋人である月詠詩織よりも僕の帰りの方が遅い。しかし、今日は違う。

プロジェクトの進捗が予想以上に順調で、僕の担当分のタスクには、とっくに目途がついていた。だから、この早退は計画的なもの。詩織が少し前に雑誌を眺めながら「ここのケーキ、一度でいいから食べてみたいなあ」と呟いていたのを、僕は聞き逃さなかった。表参道にあるそのパティスリーは、平日でも行列ができるほどの人気店で、特に彼女が欲しがっていた季節限定のモンブランは、夕方にはまず売り切れている。

だから、今日しかないと思ったのだ。
会社の最寄り駅から地下鉄に乗り込み、表参道へと向かう。車窓に流れる景色をぼんやりと眺めながら、自然と口元が緩むのを感じた。

詩織と出会って二年。同棲を始めてから、一年が経つ。
明るくて、太陽みたいによく笑う彼女。僕の作る拙い料理を「世界で一番美味しい」と言って、幸せそうに頬張ってくれる彼女。仕事で疲れて帰った僕を、いつだって優しい笑顔で迎えてくれる彼女。彼女のいる日常が、僕の世界のすべてだった。
そろそろ、次のステップに進むべきだと考えている。給料の三分の一を充てている結婚用の貯金も、目標額まであと少しだ。小さなダイヤのついた、華奢なデザインの指輪。彼女の白い指によく似合うだろう。そんなことを想像するだけで、胸が温かくなる。

目的の駅で降り、少し早足でパティスリーへと向かう。ガラス張りの瀟洒な店構え。幸いにも、店の前の行列は数人程度で、お目当ての『特製和栗のプレミアムモンブラン』もまだショーケースの中に鎮座していた。自分の幸運に感謝しながら列に並び、順番を待つ。ふと、スマホを取り出して詩織にメッセージを送ろうとして、指を止めた。いや、今日は完璧なサプライズにしたい。驚き、そして満面の笑みで喜ぶ彼女の顔が目に浮かぶようだ。

二つ分のケーキを丁寧に箱に詰めてもらい、崩さないように細心の注意を払いながら店を出る。帰りの電車の中でも、僕は幸せな未来予想図を描き続けていた。今夜は彼女の好きなクリームシチューを作ろう。ケーキは食後のデザートだ。二人でソファに並んで、くだらないテレビ番組でも見ながら笑い合う。そんな、ありふれているけれど、かけがえのない時間。それが僕にとっての宝物だった。

最寄り駅に着き、スーパーでシチューの材料を買い込む。鶏肉、じゃがいも、人参、玉ねぎ。それから、彼女が好きなブロッコリーも忘れずにカゴに入れた。二人で暮らすマンションまでは、歩いて十分ほどの距離だ。夕暮れのオレンジ色の光が、僕の足元に長い影を落としている。

エントランスのオートロックを抜け、エレベーターで僕たちの部屋がある七階へと上がる。鍵を取り出し、ドアノブに手をかけた。ただいま、と声をかける前に、驚かせてやろう。そんな子供じみた悪戯心を胸に、僕は静かに鍵を回した。

ドアを開け、一歩、中に足を踏み入れた瞬間だった。
空気が、違う。いつも僕を迎えてくれる、詩織の好きなアロマディフューザーの優しい香りとは別の、知らない匂い。そして、たたきに目を落とした僕の視界に、異物が飛び込んできた。

見慣れない、男物の革靴。
黒く艶光りする、高価そうなイタリア製のブランド品だ。僕の履き古したスニーカーの隣に、それはあまりにも不釣り合いな存在感を放って、行儀よく揃えられていた。

心臓が、どくん、と大きく跳ねる。なんだ、これは。詩織の父親か?いや、お父さんが来るなら、事前に必ず連絡があるはずだ。兄もいない。では、誰の?
思考がぐるぐると空回りする。嫌な汗が、背中をじっとりと濡らしていく。さっきまで手にしていた幸福感は急速に色褪せ、代わりにどす黒い不安が胸の中に広がっていくのを感じた。

僕は持っていたスーパーの袋とケーキの箱を床に置き、靴を脱いだ。足音が立たないよう、抜き足差し足で廊下を進む。リビングのドアは、半開きになっていた。その隙間から中を窺う。部屋に人影はない。けれど、明らかに何かがおかしい。いつもは開け放たれている寝室のドアが、今日に限って固く閉ざされていた。

まるで、何者かの侵入を拒むかのように。

吸い寄せられるように、僕は寝室のドアへと近づいた。フローリングの床が、僕の体重できしむ音を立てないことだけを祈りながら。ドアの前まで来て、息を殺す。すると、その隙間から、声が漏れ聞こえてきた。

「ん……ぁ……っ、れい、さん……もっと、はげしく……」

時間と、世界のすべてが、停止した。
声の主は、詩織だった。僕が愛してやまない、恋人の声。しかし、その声が紡いでいるのは、僕の知らない男の名前と、僕には決して見せない、蕩けるように甘い喘ぎ声だった。頭が真っ白になる。耳鳴りがひどい。聞き間違いだ。そうに決まっている。何かの、悪い冗談だ。

しかし、無情にも、現実を叩きつけるように、知らない男の低い声が続いた。

「詩織、すごいな。彼氏より気持ちいい?」
「んっ…やだ、玲さんのほうが…ぜんぜん、すごい…っ、あ、そこ、だめぇ……いっちゃ、う……!」

ああ、そうか。
ストン、と何かが胸の奥に落ちてきた。
世界から、色が消える。音が、遠のいていく。僕が今まで見ていた景色、信じていた日常、積み重ねてきた幸せな時間。そのすべてが、ガラス細工のように粉々に砕け散る音がした。怒り?悲しみ?いや、そんな生易しい感情じゃない。もっと冷たくて、重くて、底なしの絶望が、僕の全身を支配していた。

一瞬、ドアを蹴破って、この世の終わりのような修羅場を演じてやろうかという衝動に駆られた。ベッドの上で醜く絡み合う二人を引きずり下ろし、この裏切りを、僕の絶望を、その体に刻みつけてやろうか、と。
だが、寸前で僕は足を止めた。
そんなことをして、何になる?泣き叫び、喚き散らし、みっともなく縋り付くのか?そんなのは、僕が望む結末じゃない。僕たちが紡いできた二年間の思い出まで、汚してしまうだけだ。

もっと、静かに。
もっと、完璧に。
そして、二度と取り返しがつかないほど、徹底的に。

踵を返し、僕は自分の私室へと向かった。幸い、このマンションは二LDKで、僕には仕事兼趣味用の書斎があった。ドアを開け、中に入る。そこは、僕だけの聖域。壁一面の本棚には技術書が並び、デスクの上にはハイスペックなデスクトップPCが鎮座している。

僕はクローゼットからバックパックを取り出し、デスクの引き出しを開けた。中から、銀行の通帳と印鑑、実印、パスポートを掴み出す。それらを無造作にバックパックに放り込んだ。次に、デスクの上のノートパソコンと、その周辺機器をケーブルごと引き抜き、同じように詰めていく。着替えは、クローゼットにあったものを三日分ほど。下着と靴下も忘れない。

荷造りをしながら、部屋の中を見渡す。本棚に飾られた、詩織と二人で旅行に行った時の写真。彼女が誕生日にプレゼントしてくれた、少し高価な万年筆。壁に立てかけてある、二人で一緒に選んだアコースティックギター。
それらすべてが、色褪せた過去の遺物に見えた。何の感情も湧いてこない。ただ、ゴミの山にしか思えなかった。

一つだけ、手に取ったものがある。
デスクの隅に置かれていた、腕時計。付き合って一年の記念日に、詩織が贈ってくれたものだ。
「奏のイメージにぴったりだと思って」
そう言ってはにかんだ彼女の笑顔を、一瞬だけ思い出す。僕はその時計を、そっとデスクの中央に置いた。さよならの代わりに。

荷造りは、十分もかからずに終わった。バックパックを背負い、私室のドアを静かに閉める。廊下に出ると、まだ寝室からは嬌声が断続的に聞こえてきていた。もう、僕の心は何も感じなかった。ただただ、冷え切っていた。

最後に、リビングへと向かう。床に置きっぱなしにしていたスーパーの袋には目もくれず、ケーキの箱だけを拾い上げた。そして、リビングの中央にあるローテーブルの上に、そっと置く。メッセージカードも、メモも、何も添えない。ただ、そこにあるという事実だけが、無言の告発者として機能すればいい。
君が欲しがっていたケーキだ。君が他の男と貪り合っている間に、君を喜ばせたい一心で、僕が買ってきたケーキだ。その事実だけが、後で彼女の心を抉る、小さな棘になることを願って。

もう一度、玄関へ。
自分のスニーカーを履き、ドアノブに手をかける。振り返ることはしなかった。この部屋で過ごした日々に、未練など一片もなかった。
静かにドアを開け、外に出る。そして、ポケットから鍵を取り出し、ドアの横にある郵便受けの投入口から、中へと滑り込ませた。カラン、という軽い金属音が、僕たちの関係の終わりを告げるゴングのように響いた。

マンションを出て、まっすぐ駅へと向かう。もうこの街に戻ってくることはないだろう。
駅前の携帯ショップに飛び込み、整理券を取る。幸い、待ち時間はほとんどなかった。カウンターの女性店員に、僕は努めて冷静な声で告げた。

「解約をお願いします」
「かしこまりました。ご本人様確認書類を……」

手続きは、驚くほどあっさりと進んだ。長年使ってきたスマートフォンが、ただの文鎮に変わる。詩織からの着信も、LINEも、もう僕に届くことはない。これでいい。これがいいんだ。

次に、僕はスマートフォンを買い直すついでに、ネットカフェに入った。個室のPCを起動し、以前から付き合いのある弁護士のウェブサイトにアクセスする。問い合わせフォームに、簡潔に用件を打ち込んだ。

『天羽奏と申します。一身上の都合により、現職を本日付で退職したく思います。つきましては、退職届の提出代行、及び会社との今後のやり取りをすべて先生にお願いしたく存じます。後ほど、正式に委任契約を結ばせてください』

送信ボタンをクリックする。これで、社会的な繋がりも、ひとつ断ち切った。残るは、物理的にこの場所から消えるだけだ。
ネットカフェを出た僕は、新宿行きの電車に乗り込んだ。目指すは、日本最大のバスターミナル。行き先は決めていない。どこでもよかった。東京から、詩織から、僕の死んだ世界から、できるだけ遠い場所であれば。

深夜のバスターミナルは、様々な人間模様が交錯していた。大きな荷物を抱えた若者、疲れ切った顔のサラリーマン、これから始まる旅に胸を躍らせるカップル。僕はその喧騒の中を、まるで幽霊のようにすり抜けていく。
電光掲示板に表示された、出発間近のバスのリストを眺める。北へ向かう便、西へ向かう便。その中に、『空席あり』の緑色の文字が灯る、見知らぬ地名のバスを見つけた。それに決めた。
自動券売機でチケットを買い、指定された乗り場へと向かう。列に並び、順番にバスへと乗り込んだ。僕の席は、後方の窓側だった。バックパックを足元に置き、深くシートに身を沈める。

やがて、バスは静かにエンジンを始動させ、ゆっくりとターミナルを滑り出した。車窓の外を、東京の煌びやかな夜景が流れていく。つい数時間前まで、僕もあの光の一部だった。あの光の下で、ささやかな幸せを信じ、未来を夢見ていた。
だが、もう違う。
僕の世界は、終わったのだ。あの寝室のドアの前で、音もなく崩れ落ちた。

ならば、今度は僕の番だ。
君たちが僕から奪ったものを、僕が壊した世界を、そっくりそのまま返してあげよう。
僕の持つ知識、技術、そのすべてを使って。
静かに、狡猾に、そして徹底的に。
君たちが、自分たちの犯した罪の重さに気づき、絶望の底で泣き叫ぶその日まで。

流れていくネオンサインの光を、僕はただ無感情に見つめていた。その瞳の奥に、氷のように冷たく、昏い復讐の炎が静かに灯り始めていた。