第1話 第一楽章 幸福はガラス細工のように
柔らかな朝の光が、レースのカーテンを透かしてリビングに差し込んでいた。テーブルの上には、焼きたてのトーストと、ふわりと湯気の立つスクランブルエッグ。そして、俺、黒羽奏(くろはかなで)の向かい側には、世界で一番愛しい婚約者、白雪莉緒(しらゆきりお)が座っている。
「奏の作る朝ごはん、ほんと美味しい。毎日食べられて幸せだなあ」
莉緒はバターを塗ったトーストを頬張りながら、子猫のように目を細めた。その屈託のない笑顔を見るだけで、胸の奥が温かいもので満たされていく。俺の幸せは、いつだって彼女の笑顔の中心にあった。
「莉緒が美味しそうに食べてくれるから、作り甲斐があるんだよ。おかわりいる?」
「んー、じゃあ、ベーコンだけもう一枚」
「はいよ」
キッチンに立ち、冷蔵庫からベーコンを取り出す。ジュウ、とフライパンの上で奏でられる軽快な音すら、この幸福な日常を彩るBGMのように聞こえた。大学時代に出会い、恋に落ち、社会人になってからも共に歩み、そして三ヶ月前に俺からのプロポーズを彼女は涙を浮かべて受け入れてくれた。今は俺のマンションで同棲し、来春に控えた結婚式の準備を進めている。完璧な人生の設計図。俺の世界は、莉緒という太陽を中心に、完璧な軌道を描いて回っていた。
「ねえ、奏。昨日の夜に見てた式場のパンフレット、どこ置いたっけ?」
「ああ、それならソファの上だよ。莉緒、寝落ちしてたから俺が片付けといた」
「あ、ほんとだ。ごめん、ありがとう」
リビングに戻ると、莉緒は分厚いパンフレットの束を膝に広げていた。ステンドグラスが美しいチャペル、緑豊かなガーデンウェディング、海が見えるゲストハウス。どれもこれもが、俺たちの輝かしい未来を約束してくれているかのようだ。
「やっぱり、このステンドグラスの教会、素敵だよね。莉緒のウェディングドレス姿、絶対に映えると思うな」
俺が隣に座って言うと、莉緒は「もう、気が早いよ」と照れくさそうに笑いながら、俺の肩にこてんと頭を乗せてきた。シャンプーの甘い香りがふわりと鼻をかすめる。この温もり、この匂い、この柔らかな感触。そのすべてが、俺が守るべき宝物だった。
「でも、奏は?奏はどんな式がいいの?」
「俺は、莉緒が一番綺麗に見える場所がいい。莉緒が笑ってくれるなら、どこだって最高の式場だよ」
心の底からの本心だった。人を疑うことを知らず、性善説こそが世界の真理だと信じて生きてきた俺にとって、莉緒の存在は唯一無二の絶対的な真実だった。彼女を幸せにするためなら、俺は何だってできる。この命さえ、差し出すことを厭わない。そう、本気で思っていた。
「奏は、いつもそう言ってくれるね」
莉緒は少しだけ寂しそうな、それでいて安心したような複雑な表情を浮かべた。その時の俺は、彼女の表情に隠された些細な陰に、気づくことすらできなかったのだ。
*
莉緒の日常に、小さな波紋が生まれたのは、その数週間後のことだった。部署に、別支社からエースだと評判の男が異動してきたのだ。彼の名前は、天海陽翔(あまみはると)。太陽のように明るい笑顔と、誰に対しても誠実な態度、そして何より仕事に対する情熱と能力の高さは、すぐに社内で評判となった。
莉緒が担当するプロジェクトに彼がサポートとして加わった日、陽翔は莉緒のデスクにやってきて、爽やかな笑顔で言った。
「白雪さん、ですよね。天海です。今日から同じチームでお世話になります。あなたの企画書、拝見しました。視点がすごくシャープで、勉強になります」
「あ、ありがとうございます。天海さんも、前の支社での実績、すごいって聞いてます。こちらこそ、よろしくお願いします」
社交辞令の挨拶。最初は、ただそれだけのはずだった。けれど、陽翔は違った。彼は仕事で困っている莉緒をさりげなくフォローし、ミスをした後輩を庇う彼女の優しさに気づき、そして、その一つひとつを言葉にして伝えてきた。
「白雪さん、さっきのクライアントへの説明、見事でした。俺、思わず聞き入っちゃいましたよ」
「この資料作成、大変だったでしょう。お疲れ様です。よかったら、この後のデータ入力、俺がやりますよ」
奏からの愛情とは、少しだけ質の違う、けれど同じくらいストレートな好意。奏の愛が、すべてを包み込むような温かい日だまりだとすれば、陽翔の言葉は、乾いた心に染み渡る清涼な水だった。婚約者がいる身として、他の男性からの好意に戸惑い、罪悪感を覚える。けれど、真摯な彼の瞳に見つめられるたび、莉緒の心臓は小さく音を立てた。
ある日の残業終わり。疲れ果てて一人デスクで溜息をついていると、缶コーヒーを差し出しながら陽翔が隣に座った。
「お疲れ様です、白雪さん。もうひと頑張りですか?」
「天海さん……。うん、ちょっとね。ありがとう」
「無理しないでくださいね。白雪さんが頑張り屋さんなのは知ってますけど、その……笑顔が曇ってると、俺が心配になるんで」
まっすぐな言葉だった。何の衒いもない、ただ純粋な気遣い。その言葉が、奏への絶対的な信頼で固められていたはずの莉緒の心に、小さな、しかし確かな亀裂を入れた。
「……ありがとう」
そう答えるのが精一杯だった。胸に広がるのは、罪悪感と、それとは裏腹の高揚感。この感情に名前をつけてはいけない。そう、頭では分かっていた。
*
その頃からだろうか。莉緒の様子に、微細な変化が現れ始めたのは。
以前よりも帰宅時間が遅くなる日が増えた。「プロジェクトが佳境で」という彼女の言葉を、俺は疑いもしなかった。むしろ、「大変だな。無理するなよ」と彼女の身体を気遣い、栄養のある夜食を作って待っているくらいだった。
リビングで一緒に過ごしていても、莉緒がスマホを気にする頻度は明らかに増えていた。画面を伏せて置くようになったのも、この頃からだ。ふとした瞬間に、どこか遠くを見ているような、上の空の表情を浮かべることもあった。
「莉緒?どうした、疲れてる?」
俺がそう声をかけると、彼女はいつも、はっとしたように我に返り、慌てて笑顔を作った。
「う、ううん、なんでもない!ちょっと仕事のこと考えちゃって。ごめんごめん」
「そっか。あんまり根を詰めすぎるなよ。莉緒が倒れたら、俺、生きていけないからさ」
冗談めかしてそう言うと、莉緒は一瞬、苦しそうに顔を歪め、すぐに力なく笑った。「大袈裟だよ」と俺の胸を軽く叩くその手は、どこか震えているように感じられた。
今思えば、サインは無数にあったのだ。彼女が発するSOSの点滅、助けを求める小さな悲鳴。だが、俺の「莉緒を信じる」という絶対的な自信と純粋さは、都合の悪い真実から目を逸らすための分厚いフィルターになっていた。彼女が苦しんでいるのなら、それは仕事のせいだ。俺が彼女を支えなければ。俺が彼女を守らなければ。その思い込みが、皮肉にも彼女を別の男の腕の中へと、さらに強く押しやっていくことになるなど、夢にも思わずに。
俺の優しさと信頼が、彼女の罪悪感を麻痺させ、言い訳を与えていた。奏はこんなにも私のことを信じてくれている。だから、こんなことをしている私は最低だ。でも、陽翔さんは私の弱さも全部受け止めてくれる。奏には言えない、この苦しさを分かってくれるのは彼だけだ――。そんな風に彼女の心が傾いていっていることなど、愚かな俺は知る由もなかった。
*
運命の日。その日は朝から冷たい雨が降り続いていた。
俺は、莉緒へのサプライズを計画していた。付き合い始めてから五年目の記念日。高級ブランドの店に足を運び、莉緒が以前「素敵だな」と呟いていたネックレスを、清水の舞台から飛び降りる覚悟で購入した。繊細なプラチナのチェーンに、小さなダイヤモンドが揺れるデザイン。彼女の白い首筋に、きっと映えるだろう。
早く渡して、彼女の喜ぶ顔が見たい。その一心で、俺は仕事を早々に切り上げると、プレゼントの入った小さな紙袋を手に、彼女の会社近くのカフェで帰りを待つことにした。雨に濡れないように、大きな傘も用意して。
『今、仕事終わった。これから帰るね』
莉緒から届いたメッセージに、俺の心は躍った。カフェを出て、彼女がいつも使う駅への帰り道、少しだけ屋根のあるアーケードの下で彼女を待つ。あと数分もすれば、ここに莉緒がやってくる。驚くだろうか。喜んでくれるだろうか。そんな想像だけで、口元が自然と緩んだ。
雨脚はさらに強くなる。街灯の光が濡れたアスファルトに反射して、滲んだように揺らめいていた。車のヘッドライトが立て続けに通り過ぎていく。
その、光の帯の向こう側。見慣れたシルエットが見えた。莉緒だ。俺は思わず一歩踏み出そうとして、しかし、その場で凍り付いた。
彼女は、一人ではなかった。
一本の大きな傘。その下に、莉緒と、見知らぬ男が肩を寄せ合うようにして歩いていた。莉緒の身体は完全に男の方に預けられ、その顔は幸せそうに綻んでいる。俺がここ数週間、見ることのできなかった、心からの安らかな笑顔だった。
男が何かを囁き、莉緒が笑う。そして、次の瞬間。
男は立ち止まり、莉緒の顔を覗き込むようにして、その唇をそっと重ねた。莉緒は、抵抗しなかった。それどころか、うっとりとした表情で目を閉じ、彼の首にそっと腕を回したように見えた。
――カシャン。
まるで遠くでガラスが割れるような、乾いた音が聞こえた。いや、違う。それは俺の手から滑り落ちた紙袋が、地面に叩きつけられた音だった。紙袋の中から転がり出た小さな箱が、雨水に濡れた地面の上で、虚しく静止している。
時間が、止まった。
世界から、音が消えた。
雨音も、車の走行音も、雑踏の喧騒も、何も聞こえない。ただ、雨に打たれながらキスを交わす二人――俺が人生のすべてを捧げると誓った女と、どこの誰とも知れない男――の姿だけが、悪夢のようにスローモーションで目に焼き付いていた。
何が、起きている?
これは、何かの間違いだ。悪い夢だ。だって、莉緒が。俺の莉緒が、あんなことをするはずがない。
俺は、俺たちは、来年の春に結婚するんだ。つい昨日まで、子供の名前はどうしようかなんて、他愛もない話で笑い合っていたじゃないか。彼女が俺以外の男と?キスを?
思考が、追いつかない。心臓を鷲掴みにされ、力任せに握り潰されるような激痛が全身を貫く。息ができない。立っているのがやっとだった。
どれくらいの時間、そうしていたのだろうか。やがて二人はゆっくりと唇を離し、再び一つの傘の中、何事もなかったかのように寄り添って歩き出す。幸せそうな二人の背中が、雑踏の中にゆっくりと溶けていく。
その背中を、俺はただ、茫然と見送ることしかできなかった。
降りしきる冷たい雨が、俺の身体を、心を、芯から凍らせていく。熱いのか冷たいのかも分からない液体が、頬を伝った。それが雨なのか、涙なのか、判別はつかなかった。
ああ、そうか。
そういうことか。
俺の世界は、今、終わったんだ。
純粋で、善良で、人を信じて疑わなかった「黒羽奏」という人間は、この冷たい雨に打たれて、今この瞬間に死んだのだ。
地面に転がったプレゼントの箱を、俺は拾い上げなかった。代わりに、ゆっくりと顔を上げる。濡れた前髪の隙間から見えた俺の瞳に、どんな色が宿っていたのか。自分でも分からない。
ただ一つ確かなことは、粉々に砕け散ったガラス細工の破片が、俺の心の中で、鋭利な刃物へと姿を変えたということだけだった。
これから始まる、長く、冷たい復讐劇の幕開けを告げる鐘の音が、壊れた世界の中心で、静かに鳴り響いていた。