純愛の残骸に咲く復讐華〜婚約者を寝取ったお前らに、十年物の絶望をプレゼント〜

第3話 第三楽章 亀裂に響く不協和音

仮面舞踏会の幕が上がってから、さらに数年が経過した。俺の計画は、水面下で着々と進行し、いよいよその本性を現し始める段階に来ていた。俺が蒔いた破滅の種は、陽翔と莉緒の家庭という土壌で、ゆっくりと、しかし確実に根を伸ばし、彼らの幸福を内側から蝕み始めていた。

仕事の面では、陽翔がリーダーを務める社運を賭けた一大プロジェクトが、最終局面を迎えていた。もちろん、その最重要取引先の担当者として、プロジェクトの根幹を握っているのは俺、黒羽奏だ。

「天海、いよいよ大詰めだな。このプロジェクトが成功すれば、君の評価は一気に上がるぞ。最高のチームじゃないか、俺たちは!」

俺は会議室で、陽翔の肩を力強く叩いた。その目は完全に俺を信頼しきっている。当初の警戒心など、とうの昔に消え失せていた。俺が彼のキャリアにとって最大の理解者であり、強力なパートナーであると信じて疑っていなかった。

「黒羽さん……はい!本当に、あなたと組めてよかった。絶対に成功させましょう!」

純粋な目でそう語る陽翔の姿は、かつて莉緒の心を射止めたであろう誠実さそのものだった。だが、その純粋さこそが、彼の首を絞める最大の要因となる。

俺は、この数ヶ月にわたり、プロジェクトの根幹に関わるデータの流れに、巧妙な罠を仕掛けていた。一見すると些細な、しかし連鎖的に致命的なエラーを引き起こす時限爆弾のようなものだ。それは、プロジェクトの全体像を把握し、かつリーダーとして最終的な責任を負う陽翔にしか、その異常性を指摘できないように巧妙にカモフラージュされていた。俺は陽翔を「信頼できるパートナー」として持ち上げ、彼の注意を別の部分に逸らし続け、その欠陥に気づかせなかった。

そして、運命の最終プレゼンの日。
役員たちが居並ぶ会議室で、陽翔が自信満々にプロジェクトの成果を発表している最中、俺は仕掛けた爆弾のスイッチを入れた。それは、俺が事前に陽翔に渡しておいた、最終報告用のUSBメモリに仕込まれた小さなプログラムだった。

「……以上が、我々のプロジェクトの成果です。このシステムにより、我が社の生産性は、来期には30%以上の向上を見込むことが――」

陽翔の言葉が、途切れた。
スクリーンに映し出されていた輝かしい成果報告のグラフが、突如として意味不明の文字列に化け、次々と赤色のエラー表示で埋め尽くされていく。

「な……なんだ、これは……?」

陽翔の顔から血の気が引いていく。会議室が、騒然となった。
俺は、誰よりも驚いた表情で立ち上がった。

「天海!どういうことだ、これは!データが、すべて破損しているじゃないか!」

俺は悲痛な声で叫び、壇上の陽翔に駆け寄る。しかし、それはもちろん演技だ。俺は役員たちの方を振り返り、絶望的な表情で首を横に振って見せた。

「申し訳ありません……。最終データの管理は、すべてリーダーである天海さんに一任しておりました。まさか、こんな初歩的なミスが起きるなんて……」

すべての責任はリーダーである陽翔一人にある。俺はあくまでも「外部の協力者」であり、「被害者」である。その構図を、俺は完璧に作り上げた。陽翔は「そんなはずは……」「黒羽さんから受け取ったデータは完璧だったはず……」と狼狽えながら何かを口走っていたが、パニックに陥った彼の言葉に耳を貸す者など、誰もいなかった。

結果、プロジェクトは歴史的な大失敗に終わり、会社に莫大な損害を与えた。リーダーであった陽翔はすべての責任を負わされ、即日、閑職への降格処分が下された。会社での信用と立場、そして彼が積み上げてきたキャリアのすべてが、音を立てて崩れ去った瞬間だった。

会議室の隅で、力なく床に膝をつく陽翔を、俺は冷たい瞳で見下ろしていた。

――これが第一楽章だ、天海。お前が俺から奪ったものの、ほんの始まりに過ぎない。

夫の失墜は、当然ながら家庭にも暗い影を落とした。
降格による給料の大幅な減額。描いていた未来予想図は崩れ、住宅ローンの支払いが重くのしかかる。陽翔は酒の量が増え、家で荒れるようになった。かつての爽やかな好青年は見る影もなく、焦燥感と屈辱に苛まれる惨めな男がそこにいるだけだった。

「なんで俺がこんな目に……!」
「お前に、俺の気持ちが分かってたまるか!」

莉緒に当たり散らす陽翔。莉緒もまた、そんな夫の姿に失望し、かつて彼に抱いた愛情は急速に冷めていった。夫婦の会話は減り、家の中は常に張り詰めた空気が漂っていた。

その亀裂に、俺は優しく、そして滑らかに入り込んでいく。

「莉緒、大丈夫か?大変だって聞いたよ」

俺は「共通の友人から話を聞いた」という体で、莉緒に連絡を取った。そして、彼女がよく利用する駅前のカフェで、「相談に乗る」という名目で彼女と会った。

やつれた顔の莉緒は、俺の顔を見るなり、堰を切ったように愚痴をこぼし始めた。

「聞いてよ、奏……。陽翔ったら、最近人が変わったみたいで……。家のことなんて何もしないで、お酒ばっかり飲んで……」
「そうか……。彼も、辛いんだろうな。でも、だからといって莉緒に当たっていい理由にはならない」

俺は、決して陽翔を一方的に非難しない。むしろ、彼の立場に理解を示すような言葉を口にする。それが、莉緒の心に「奏はなんて大人なんだろう」「それに比べて、私の夫は……」という対比を、より鮮明に刻み込むことになるからだ。

「俺でよければ、いつでも愚痴くらい聞くよ。一人で抱え込むなよ、莉緒」

俺は、温かいコーヒーの入ったカップを、彼女の冷え切った手のひらにそっと重ねた。莉緒は、びくりと肩を震わせ、俺の顔を潤んだ瞳で見上げた。

「奏……ありがとう。あなただけよ、こんな私の話をちゃんと聞いてくれるの……」
「友達だろ?」

俺は優しく微笑む。その笑顔の裏で、心が凍りついていることに、彼女は気づかない。俺は決して「陽翔と結婚したのは間違いだった」とは言わない。だが、俺という存在そのものが、莉緒に過去の選択を後悔させる、何より雄弁な証拠となっていた。もし、あのまま奏と結婚していたら。こんな惨めな思いをすることはなかったのではないか。その「if」の幻想が、毒のように彼女の心を蝕んでいく。

俺の侵食は、それだけでは終わらない。
すっかり俺に懐いている息子のゆうと君を、週末に遊びに連れ出すこともあった。「大変だろうから、少し息抜きしたらどうだ?」と莉緒に提案し、陽翔にはできないような、少しリッチな体験をさせてやるのだ。最新のヒーローショー、水族館のバックヤードツアー、高価な知育玩具のプレゼント。

「わーい!奏おじちゃん、大好き!パパより好き!」

無邪気な子供が発するその言葉が、陽翔の父親としてのプライドをどれだけ深く傷つけるか、俺は正確に知っていた。家に帰ったゆうと君が、俺との楽しかった一日を語れば語るほど、何もしてやれない陽翔は苛立ち、そして無力感に苛まれる。その矛先が、再び莉緒へと向かう。完璧な負の連鎖だ。

ママ友や親戚の間にも、俺は情報源不明の噂を巧みに流布していた。

「陽翔さん、会社で大変なことになったらしいわよ。自業自得だって話も……」
「それに比べて、莉緒ちゃんの元婚約者だった黒羽さん?あの人は本当に立派よねえ」
「莉緒ちゃん、男を見る目がなかったのかしらね……」

四面楚歌。
仕事も、家庭も、周囲の人間関係も、すべてが不協和音を奏で始めた。かつて絵に描いたような幸せな家庭だったはずの城は、俺が仕掛けた無数の亀裂によって、内側から崩壊の一途を辿っていた。

ある夜、莉緒から電話がかかってきた。ひどく酔っているようだった。

『ねえ、奏……。私、間違ってたのかな……。あなたを裏切って、私……』

電話口で泣きじゃくる莉緒。俺は、その嗚咽を、まるで美しい音楽を聴くように、静かに聞いていた。

「莉緒。もう、昔のことだ。それに、君には天海さんが、ゆうと君がいるじゃないか」

優しい声で諭しながら、俺の口元には、三日月のような冷たい笑みが浮かんでいた。

そうだ、もっと苦しめ。もっと後悔しろ。お前たちが味わっているその痛みは、俺が二年前に味わった絶望の、まだ序曲に過ぎないのだから。

崩壊の旋律は、いよいよ最終楽章へと向かって、そのテンポを速めていく。