幼馴染がクズな彼氏に裏切られた。……「もう遅い」はずの僕たちの、不器用なやり直し

第4話 嵐のあとの静寂

踏み入れた葵の部屋は、むせ返るような澱んだ空気に満ちていた。
厚手のカーテンが固く閉ざされ、昼間だというのに部屋の中は薄暗い。床にはコンビニの袋やペットボトルが散乱し、いつもは几帳面に片付けられているはずの彼女の部屋の面影はどこにもなかった。
その部屋の惨状が、葵の心の荒み具合をそのまま表しているようで、俺の胸はギリリと締め付けられた。

葵は俺を招き入れた後、力なくベッドの端に腰を下ろした。
膝を抱え、ただじっと床の木目を見つめている。生気が抜け落ち、まるで糸の切れた操り人形のようだった。

「……とりあえず、空気、入れ替えるぞ」

俺はそう言って、窓際のカーテンをシャーッと乱暴に開け放った。
眩しい光が部屋に差し込み、葵が眩しそうに目を細める。俺は構わず窓の鍵を開け、冷たい風を部屋の中へと招き入れた。

まずはこの澱んだ空気をどうにかしなければいけない。俺は床に散らばったゴミを無言で袋にまとめながら、葵の様子を窺った。
彼女は俺の動きを目で追うことすらせず、ただ虚空を見つめている。

「葵、最後に何か食べたのはいつだ?」

ゴミを片付け終え、葵の正面にしゃがみ込んで問いかけた。
葵はゆっくりと首を振る。

「……わかんない。金曜の夜から、ずっとここから動いてないから」

掠れた、蚊の鳴くような声だった。
やっぱりか。丸三日、まともな食事も水分も摂っていないのだろう。唇はカサカサに乾き、顔色は透き通るように白い。

「ちょっと待ってろ」

俺は立ち上がり、隣の自分の部屋に一度戻った。そして、買っておいたスポーツドリンクと、消化に良さそうなゼリー飲料を持って再び葵の部屋へと戻った。

「ほら、少しでもいいから胃に入れろ。脱水症状起こすぞ」

ゼリー飲料の蓋を開け、葵の手に握らせる。葵は言われるがままに、それをゆっくりと口に運んだ。
少しだけ喉が潤ったのか、葵の瞳にほんのわずかな光が戻ったように見えた。

「……亮太、どうして」
「ん?」
「どうして、私が休んでるって分かったの」

ぽつりとこぼれ落ちた疑問。俺は隠すことなく答えた。

「大学で噂になってた。拓海とお前が修羅場になって、お前が引きこもってるって。木村から聞いた」

拓海、という名前を出した瞬間、葵の肩がビクッと跳ねた。
彼女の顔が再び恐怖に歪み、抱え込んだ膝に顔をうずめる。

「……私、もう誰の顔も見たくない。外に、出たくない」
「ここにずっといたって、何も解決しないぞ」
「解決なんてしなくていい! ……もう、全部壊れちゃったんだから。私の居場所なんて、どこにもない」

子供のように泣きじゃくる葵の姿に、俺は強い痛みを覚えた。
ずっと周りに気を使い、誰からも愛される「星野葵」を演じてきた彼女。その努力の結晶が一瞬にして崩れ去り、彼女は今、深い絶望の淵に立たされている。

「葵」

俺は葵の両肩をしっかりと掴み、彼女の顔を上げさせた。
赤く腫れ上がった瞳から、大粒の涙がポロポロと零れ落ちている。

「着替えろ。外に出るぞ」
「やだ……出たくない……っ」
「大学には行かない。人目につかないところに行く。俺が一緒にいるから、絶対に誰にも会わせないから」

俺は強い口調で、しかし決して彼女を威圧しないように、まっすぐに目を見て言った。

「このままこの部屋で一人でいたら、お前は本当にダメになる。俺がお前を連れ出す。だから、俺を信じろ」

葵は俺の目を見つめ返した。
その瞳の奥にある怯えと迷い。俺は彼女から目を逸らさず、ただ静かに頷いてみせた。
やがて、葵は小さく、本当に小さく、コクリと首を縦に振った。

「……わかった。着替えるから、ちょっとだけ外で待ってて」
「ああ」

俺は部屋を出て、ドアの外で待った。
十分ほどして、ドアが静かに開いた。出てきた葵は、ノーメイクで、つばの広い帽子を深く被り、大きめのマスクで顔の半分を隠していた。まるで、世界から身を隠すように。

「行くか」

俺は短くそう言い、葵の前を歩き出した。
葵は俺の背中から少し離れて、怯えた子犬のようについてくる。
俺たちは大学とは反対の方向へと歩き出し、電車に乗って隣の駅まで移動した。そこから少し歩いた路地裏にある、アンティーク調の落ち着いた喫茶店。俺が時々一人で本を読みに来る、お気に入りの隠れ家のような場所だ。
平日の昼下がりということもあり、店内には客の姿はまばらだった。

一番奥の、他のお客から見えないボックス席に葵を座らせ、俺はその向かいに腰を下ろした。
店内に流れる静かなクラシック音楽と、珈琲の焙煎される香ばしい匂いが、少しだけ彼女の緊張を解いたように見えた。

「ホットミルクと、カモミールティー。あと、サンドイッチを一つ」

ウェイターに注文を告げると、葵は帽子を深く被り直したまま、テーブルの上で両手を強く握りしめていた。

「ここは俺の行きつけだ。拓海も、結衣も、大学の奴らは誰も来ない。安心しろ」

俺がそう言うと、葵はびくっと肩を震わせ、ゆっくりと顔を上げた。

「……結衣のことも、知ってるの?」
「SNSを見た。結衣の裏アカウントで、拓海との匂わせ投稿がいくつもあった。あいつらが裏で繋がってたってこと、大体は把握してる」

俺がはっきりとそう告げると、葵の目から再び涙が溢れ出した。

「……私、バカみたいだよね」

絞り出すような声だった。

「結衣のこと、ずっと一番の親友だと思ってた。私が拓海くんのことで悩んでる時、一番親身になって相談に乗ってくれてたの。……それなのに、結衣は私の背中を撫でながら、心の中で私を笑ってたんだね。拓海くんも、私の前では優しい彼氏のふりをして、裏で私を厄介者扱いしてた」

注文した飲み物とサンドイッチが運ばれてきた。
俺はカモミールティーを葵の前に置き、自分はホットミルクの入ったマグカップを両手で包み込んだ。

「葵、何があったか、全部話してみろ。俺が全部聞いてやるから」

俺の言葉に、葵はマグカップの温もりにすがるように手を添えながら、ぽつりぽつりと語り始めた。
金曜日の夜に拓海から誤爆メッセージが来たこと。
そこに『結衣』という名前と、『葵のことは適当に誤魔化しておく』という残酷な言葉が書かれていたこと。
パニックになり、何も考えられなくなって、ひたすら部屋に引きこもっていたこと。

「私ね、拓海くんのこと、本当に好きだったの。でも、それは彼自身が好きだったのか、それとも『完璧な彼氏を持っている自分』が好きだったのか、今はもう分かんない」

葵は自嘲気味に笑い、ティーカップを見つめた。

「大学に入って、周りには可愛い子がいっぱいいて、私なんて全然目立たなくて。このままじゃ埋もれちゃうって、すごく怖かった。だから、無理して派手な服着て、明るい自分を作って……そんな時に拓海くんから告白されて、これで私も特別な人間になれるって、そう思っちゃったんだ」

葵の言葉は、俺の胸に鋭く突き刺さった。
彼女がそんな劣等感や焦燥感を抱えていたなんて、俺は全く気づいていなかった。いや、気づこうとしていなかったのだ。
俺は「葵は華やかな世界に行ってしまった」と勝手に決めつけ、彼女の本当の心を見ようともせずに背を向けていた。

「拓海くんに嫌われたくなくて、ずっといい彼女を演じてた。彼の怪我が治らないことも、機嫌が悪いことも、全部私が我慢すればいいって。……でも、結局、私は彼にとって重荷でしかなかったんだね。結衣みたいに、都合よく話を聞いてくれる女の子の方が良かったんだ」

ポタッ、ポタッ、と。
葵の目から零れ落ちた涙が、テーブルの上のコースターを濡らしていく。

「結衣にも、嫌われたくなかった。高校の時からずっと一緒にいてくれて、私のダメなところも全部知ってて。……でも、結衣は私のこと、ずっと妬んでたのかな。私が拓海くんと付き合ってるのが面白くなくて、奪ってやりたかったのかな」

葵は両手で顔を覆い、しゃくり上げながら泣き続けた。

「……私、空っぽだよ。嫌われたくなくて、一生懸命いい子にしてたのに。誰も、本当の私を見てくれてなかった。拓海くんも、結衣も、誰も……っ」
「葵……」
「亮太も、そうじゃない!」

突然、葵が顔を上げ、涙でぐしゃぐしゃになった顔で俺を睨みつけた。

「亮太だって、私のこと避けてたじゃない! 私が大学で無理してるの、亮太なら分かってくれると思ってた。昔みたいに『バカだな』って笑ってくれると思ってたのに! なんで、なんで離れていったの……っ!」

その悲痛な叫びは、静かな喫茶店の中に響いた。
他のお客の視線を感じたが、俺はそんなこと全く気にならなかった。
葵の言葉が、俺の心の最も柔らかい部分を、容赦なくえぐり出したからだ。

「私、寂しかったんだよ。拓海くんと一緒にいても、周りに友達がたくさんいても、ずっと一人ぼっちみたいで……。本当の自分を見せられるのは、亮太だけだったのに。亮太がいなくなっちゃって、私、どうしていいか分かんなかった……っ!」

葵はテーブルに突っ伏し、声を上げて泣き崩れた。
彼女の小さな背中が、震えている。
俺は、今まで自分がどれほど愚かで、身勝手だったかを思い知らされていた。

俺は、自分が傷つくのを恐れていただけだ。
葵が拓海と付き合い始めた時、「俺には釣り合わない」という劣等感を言い訳にして、彼女から逃げた。
もしあの時、俺が逃げずに彼女の隣に居続けていたら。
もしあの時、俺が自分の気持ちを正直に伝えていたら。
葵はこんな風に、他人に依存して、裏切られて、ボロボロに傷つくことはなかったのではないか。
俺が葵を一人にしたから、彼女は結衣や拓海という歪んだ逃げ場を求めるしかなかったのだ。
すべての原因は、俺の臆病さにある。

「……ごめん。本当に、ごめん」

俺は立ち上がり、テーブルを回って葵の隣の席に腰を下ろした。
そして、震える彼女の背中に、そっと手を置いた。

「お前が無理してるの、本当は分かってた。でも、拓海の隣で笑ってるお前を見るのが辛くて、俺は目を逸らしたんだ。俺の勝手な劣等感で、お前を見捨てた。本当に、最低な幼馴染だ」

葵の背中を、ゆっくりと、撫でるように擦る。

「でも、もう逃げない。絶対に」

俺は葵の耳元で、はっきりとそう告げた。

「お前がどれだけボロボロになっても、俺が隣にいる。誰も本当のお前を見てくれなくても、俺だけはずっと見てる。だから……もう、一人で抱え込むな」

俺の言葉を聞いて、葵の泣き声はさらに激しくなった。
まるで、今まで溜め込んでいた泥水のような感情を、すべて外に吐き出そうとしているかのように。
俺はただ黙って、彼女の背中を撫で続けた。

嵐のような嗚咽がどれくらい続いただろうか。
やがて、葵の泣き声は少しずつ小さくなり、ヒック、ヒックというしゃっくりへと変わっていった。
彼女はテーブルから顔を上げ、備え付けの紙ナプキンでぐいっと乱暴に涙を拭った。

目は真っ赤に腫れ上がり、鼻の頭も赤くなっている。決して綺麗な顔とは言えない。
それでも、その表情からは、先ほどまでの絶望に満ちた暗い影が、少しだけ抜け落ちているように見えた。

「……亮太の服、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっちゃった」
「いいよ。いくらでも汚せ」
「……サンドイッチ、食べていい?」
「ああ。全部食え」

葵は震える手でサンドイッチを一つ手に取り、小さくかじった。
ゆっくりと咀嚼し、飲み込む。そして、カモミールティーを一口飲んだ。
ただそれだけの動作が、彼女が再び生きるためのエネルギーを取り戻していく儀式のように見えた。

「……美味しい」

葵が、本当に小さく、微かに微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間、俺の胸の奥で、熱い塊が込み上げてきた。

カタルシス。
彼女が心の中に溜め込んでいた膿を出し切り、解放された瞬間。
俺はその瞬間に立ち会えたこと、そして、彼女の涙を受け止められたことに、言い知れぬ安堵感を覚えていた。

「亮太」
「ん?」
「……ありがとう。話、聞いてくれて」
「ああ」
「私、少しだけスッキリしたかも。まだ、拓海くんのこと結衣のことは許せないし、どうしていいか分からないけど。でも……息ができるようになった」

葵はそう言って、深く息を吐き出した。

「これから、どうするつもりだ?」
「わかんない。でも……もう、嘘の自分を演じるのはやめる。誰かに嫌われるのを怖がって、自分を誤魔化すのは、もう疲れた」

葵の瞳には、まだ怯えは残っているものの、かつてのような虚ろな色は消えていた。
代わりに宿っていたのは、傷つきながらも前を向こうとする、小さな決意の光だった。

「俺がついてる」

俺は、もう一度はっきりとそう言った。

「大学に行くのが怖いなら、休めばいい。奴らに会いたくないなら、俺が壁になってやる。お前が納得できるまで、俺がずっと傍にいるから」
「……亮太、ストーカーみたい」
「うるせえ。感謝しろ」

俺の軽口に、葵は少しだけ吹き出した。

嵐のあとの静寂が、喫茶店の小さな空間を包み込んでいた。
俺たちはすべてをさらけ出し、一番醜い部分を見せ合った。
拓海や結衣への怒りや悲しみが消えたわけではない。葵の心が完全に癒えたわけでもない。
しかし、この時俺たちの間に流れていたのは、確かな安心感と、二度と互いの手を離さないという強い決意だった。

「……帰ろうか」
「うん」

俺たちは席を立ち、店を出た。
外はいつの間にか夕暮れ時を迎えており、茜色の空が街を赤く染め上げていた。
葵の足取りは、ここに来た時よりもずっと軽かった。

俺はポケットに手を突っ込み、彼女の少し前を歩く。
もう二度と、背中を向けない。彼女が転びそうになったら、すぐに支えられる距離で、共に歩いていく。
あの時言えなかった本当の気持ちを伝えるのは、まだ先でいい。
今はただ、彼女が再び自分の足でしっかりと歩き出せる日まで、この一番近くの場所を守り抜くことだけが、俺の使命だった。