「ごめん」を抱いて逝った彼と、後悔を抱いて生きる私

第3話 (間男視点)

木村健太は、行きつけのバーのカウンターで、グラスを傾けていた。琥珀色の液体が氷とぶつかる音が、やけに心地いい。最近は、どうも、この静けさが性に合っていた。騒がしい場所は、どうにも、胸の奥に沈殿している澱のようなものを掻き立てる。

斎藤優奈と出会ったのは、偶然だった。大学のサークルで、よく見かける、絵に描いたような優等生タイプの女の子。いつも隣には、幼馴染だという男がいた。高橋蓮、だったか。絵に描いたようなお似合いのカップル。誰もが羨む、健全で、真っ当な関係。
そんなものを見ると、どうにも、試してみたくなる性分だった。どこまで壊せるのか。どこまで崩れるのか。人間の脆さというものに、昔から奇妙な興味があった。

優奈は、見かけによらず、案外簡単に綻びを見せた。最初は、ただの暇つぶしだった。蓮との「完全な世界」に、彼女自身も息苦しさを感じていたのだろう。僕が少しだけ隙間を空けてやると、彼女はそこから外の世界を覗き込み、あっという間にその魅力に取り憑かれた。

「蓮には、内緒だよ」

彼女は、いつもそう言って、秘密の共有を楽しんでいた。その瞳には、背徳感と、それに伴う高揚感が宿っていた。僕は、そんな彼女を見るのが好きだった。完璧な仮面の下に隠された、剥き出しの欲望。それは、僕が知っている、人間の真実だったから。
僕にとって、優奈は、新しい刺激だった。蓮を裏切るというスリルが、彼女をより魅力的に見せた。蓮の存在? まあ、いることは知っていたさ。だが、それは僕とは関係のない世界の住人だった。彼を傷つけるつもりもなければ、特に気にかけることもなかった。ただ、ゲームの駒が一つ増えた、それだけの話だ。

ある日、優奈から連絡が来た。声が震えていた。「蓮が…」
最初は、何のことか分からなかった。いつもの痴話喧嘩の延長だろうと、高を括っていた。だが、優奈の声は、明らかに尋常ではなかった。そして、数日後、蓮が自殺したというニュースを、新聞で見た。
心臓が、一瞬、止まった気がした。まさか。そこまでだとは、思わなかった。
いや、僕は無関係ではない。優奈との関係が、彼を追い詰めた一因になったことは、間違いなく。
それでも、奇妙な感覚だった。罪悪感、というには薄い。ただ、漠然とした、不快感。僕の何気ない行動が、一人の人間の命を終わらせた。その事実だけが、鉛のように胸に沈んだ。

優奈からの連絡は、途絶えた。当然だ。彼女が、僕と関わり続けられるはずがない。蓮の死は、彼女にとって、きっと拭い去れない烙印になったことだろう。
僕は、何も変わらなかった。ただ、あのバーで、一人グラスを傾ける時間が増えただけだ。
誰かを裏切り、傷つけ、そして、破滅へと導いた。それでも、僕自身は、何一つとして失っていない。それが、僕がこの世で得た、唯一の教訓だった。人間は、案外、他人の不幸の上にも、平然と立ち続けられるものだ。
あのニュースを見て以来、僕は少しだけ、人間というものが、もっと恐ろしい生き物に見えるようになった。僕自身も含めて。

時折、蓮の顔が、記憶の片隅をよぎることがある。優奈の隣で、何の疑いもなく、穏やかに微笑んでいた、あの男の顔。彼は、きっと、優奈を心から信じていたのだろう。その信頼が、彼の命を奪ったのだとしたら、皮肉なものだ。
僕は、これからも、こうして生きていくだろう。あの日の出来事は、僕にとって、一つ、少しばかり刺激的な経験だった。それ以上でも、それ以下でもない。
けれど、ふとした瞬間に、あの白黒の新聞記事が、脳裏にフラッシュバックすることがある。そのたびに、胸の奥で、微かに冷たいものが広がるのを感じる。それは、後悔ではない。ただ、言いようのない、歪んだ満足感に似た感情だ。
誰も僕を責めない。僕自身も、僕を責めない。それが、僕の現実だ。
そして、この現実は、まるで、悪夢の中に沈み込んだような、救いのない感覚を、僕に与え続けている。