第2話 (彼氏視点)
高橋蓮は、カーテンの隙間から漏れる朝の光が、やけに白く、冷たく見えた。まるで、この世界から色の全てが抜け落ちてしまったかのようだ。昨日まで鮮やかに輝いていた日常は、もうどこにもない。この部屋の空気は、ひどく重い。僕の心臓が、まるで重りをぶら下げられたかのように、鈍く、ゆっくりと鼓動を打っている。
優奈とは、本当に、幼い頃から一緒だった。僕にとって優奈は、空気のように当たり前の存在で、同時に、息をするたびに胸を満たす、一番大切なものだった。彼女の笑顔を見るたび、その柔らかな手に触れるたび、僕は自分がこの上なく幸福だと思い込んでいた。将来、優奈と結婚して、ささやかながらも温かい家庭を築く。それが僕の、唯一無二の夢だった。あまりに自然すぎて、そんな夢を語る必要すらなかったのだ。互いに、それが当たり前の未来だと信じて疑わなかった。
いつからだっただろう。優奈の目が、僕とは違う遠くを見つめるようになったのは。
最初は、些細なことだった。携帯を肌身離さず持ち歩くようになったこと。僕からの電話に出ないことが増えたこと。休日の誘いを断り、言い訳が以前より稚拙になったこと。僕の隣にいても、どこか上の空で、目が笑っていないことが増えたこと。
それでも、僕は信じたかった。いや、信じるしかなかった。僕の優奈が、僕を裏切るなんて。僕らの長い歴史を、たった一時の感情で台無しにするなんて。そんなはずはないと、何度も自分に言い聞かせた。もしかしたら、僕が、少しばかり窮屈だったのかもしれない。彼女の求めるものが、僕には与えられていなかったのかもしれない。そうやって、自分の中に理由を見つけようと、必死だった。
胸に刺さる違和感は、日を追うごとに鋭さを増していった。夜中に目が覚めると、隣にいるはずの優奈がいない。リビングから微かに聞こえる声。それが、僕の疑念を確信へと変えた。
あの日、僕は優奈の部屋で、彼女の携帯をたまたま手にしてしまった。見ようとしたわけじゃない。本当に、偶然だった。けれど、そこにあったメッセージは、僕の目を、心を、焼き尽くすには十分すぎた。
『健太、今度いつ会える? 蓮には内緒ね』
その瞬間、世界が音を立てて崩れ落ちるのを感じた。頭の中で、これまで優奈が話した嘘が、映画のフィルムのように次々と再生されていく。僕は、騙されていた。僕の全てだった優奈は、もうどこにもいなかった。僕の知っている優奈は、幻だったのだ。
「優奈、僕のこと、本当に好き?」
僕の声は、震えすぎて、まるで他人の声のようだった。優奈は、何も言えなかった。その沈黙が、僕にとっての死刑宣告だった。彼女は、僕を見る瞳に、もはや愛情のかけらも見せていなかった。あるのは、きっと、罪悪感と、僕への憐憫だけ。
その夜、僕は自分の部屋に戻り、ずっと考えていた。僕たちの未来は、もうない。優奈は、僕を裏切った。僕が信じていた全てを、簡単に踏みにじった。僕がこれからどう生きていけばいいのか、全く分からなかった。僕の人生は、優奈が中心に据えられていた。その中心が、今、ごっそり抜け落ちてしまったのだ。
目の前が真っ暗になった。息ができない。どれだけ藻掻いても、泥沼から抜け出せない。僕の小さな部屋は、いつの間にか僕を飲み込む深い井戸の底になっていた。
誰にも言えない。誰にも相談できない。僕のプライドが、そんなことを許さなかった。
明日が来るのが、ただ、怖かった。優奈の顔を見るのが、怖かった。彼女の偽りの笑顔に、これ以上耐えられなかった。
僕には、もう、選択肢が残されていなかった。この絶望から逃れる方法は、ただ一つ。
机の上に、一枚の紙を置いた。震える手で、ペンを握る。
何を書けば、この胸の苦しみが、少しは楽になるだろう。
優奈への恨み? 健太への怒り?
いや、そんなものは、もうどうでもよかった。
ただ、優奈が、僕が死んだことで、ほんの少しでも、彼女の過ちに気づいてくれれば。
その思いだけを込めて、僕はたった一言、綴った。
『ごめん』
何に対する「ごめん」だったのだろう。
優奈に気づいてやれなかった僕への「ごめん」か。
この苦しい世界から、逃げることしかできなかった僕への「ごめん」か。
それとも、愛しい君を、最後まで信じきれなかった僕への「ごめん」か。
僕の体は、氷のように冷たかった。心臓の音が、やけに大きく響く。
これで、全てが終わる。優奈の裏切りも、僕の苦しみも。
静かに、目を閉じた。僕の知る世界は、もう、ここにはない。
残されるのは、きっと、僕を失った優奈の後悔。
それだけが、僕の存在の、最後の証になるだろう。
そして、彼女は、その重荷を背負い、僕が経験したよりも、もっと深く、長い暗闇を、一人で彷徨い続けることになる。
それが、僕の、最後の望みだった。