君が隣で喘いだ日、僕の世界は音を立てて終わった。だから全部、壊してあげる

第2話 届かないアンサー

熱を帯びたシーツの中で微睡みながら、私は隣でまだ吐息を荒らげている男の背中をそっと撫でた。

「玲さん、そろそろ……」
「んー……もうちょっとだけ」

名残惜しそうに私の肩口に顔を埋めるのは、皇玲さん。私が働くアパレルブランドの本社に勤めるエリート社員で、この危険な関係の相手だった。逞しい腕が再び私の体を強く抱きしめる。その温かさに一瞬だけ身を委ねそうになったけれど、現実に引き戻されて慌ててその胸を押した。

「だめ。もうすぐ奏が帰ってきちゃう」

その名前を口にした瞬間、部屋の空気が少しだけ冷えた気がした。玲さんはつまらなそうに唇を尖らせたが、仕方ないといった様子でゆっくりと体を起こす。ベッドから抜け出し、床に散らばった服を手際よく身につけていく彼の姿は、まるで高級なファッション雑誌から抜け出してきたモデルのようだった。

「相変わらず真面目だな、詩織の彼氏は」
「そういう人だから」

そう答えながら、私は心の中で小さな安堵の息を漏らしていた。奏は真面目で、優しい。だからこそ、今日のこの火遊びが成り立っている。彼が私を疑うことなんて、万に一つもないだろう。結婚前の、ほんの少しのスパイス。刺激的な秘密。そう自分に言い聞かせてはいたけれど、ちくりと刺す罪悪感から完全に目を逸らすことはできなかった。

「じゃあ、また連絡する。今度の休み、箱根でも行くか?」
「えっ、ほんと?」
「ああ。美味いもの、食わせてやるよ」

ジャケットを羽織りながら、彼は余裕たっぷりに笑いかけてくる。そのスマートな仕草に、また胸が高鳴ってしまう自分が嫌になる。奏にはない、危うげな魅力。それに抗えない自分が、少しだけ怖かった。

玄関まで彼を見送り、唇に軽いキスを落とされる。ドアが閉まる音を聞いて、私は大きなため息をついた。急いで寝室に戻り、乱れたベッドを直し、窓を開けて空気を入れ換える。彼の残り香を消し去るように。
シャワーを浴びて、何食わぬ顔で奏の帰りを待つ準備を整える。リビングに戻った時、ローテーブルの上に置かれた見覚えのあるロゴの箱が、私の目に飛び込んできた。

「あれ……?」

それは、私が少し前に雑誌で見かけて「食べてみたいな」と呟いた、表参道の有名パティスリーの箱だった。どうしてこれがここに?奏からだとしたら、何か連絡があってもいいはずなのに。スマホを確認しても、彼からのメッセージは一件も入っていなかった。

「……サプライズ、かな?」

きっとそうだ。いつもみたいに、私の喜ぶ顔が見たくて、こっそり買ってきたに違いない。そう思うと、罪悪感でいっぱいだった胸が、温かいもので満たされていくような気がした。早く帰ってこないかな。帰ってきたら、ありがとうって、満面の笑みで伝えなくちゃ。私は浮かれた気分でキッチンに立ち、奏の好きなクリームシチューを作り始めた。

しかし、その夜、奏は帰ってこなかった。

時計の針が午後八時を回り、九時を過ぎ、十時になっても、玄関のドアが開く音はしなかった。作り終えたシチューは、鍋の中で冷めていく。テーブルの上のケーキの箱が、なんだか不気味な存在に見えてきた。
何度もスマホを手に取り、画面を睨みつける。電話をかけてみても、『おかけになった電話番号は、現在使われておりません』という、感情のないアナウンスが繰り返されるだけだった。なんで?どうして?LINEを送っても、いつまで経っても既読の二文字はつかない。
まさか、事故にでも遭ったんじゃ……。
嫌な想像が頭をよぎり、心臓が早鐘を打ち始める。いてもたってもいられず、部屋着のままマンションを飛び出し、近所のコンビニや駅までの道を何度も往復した。けれど、彼の姿はどこにもなかった。不安と寒さで震えながら部屋に戻り、ほとんど眠れないまま、夜が明けるのを待った。

翌朝、重い体を引きずって起き上がると、隣のスペースは冷たいままだった。奏がいない朝。それだけで、世界の色が褪せて見える。私は震える手で、彼の会社に電話をかけた。今日こそは、何かわかるはずだ。そう信じて。

「あの、私、天羽奏の恋人の月詠と申しますが、奏は……いえ、天羽は出社されてますでしょうか?」
『ああ、月詠さん。実は、こちらからもご連絡しようと思っていたんです』

電話口の女性事務員の、どこか困惑したような声色に、胸騒ぎがする。

『天羽さんなら、昨日の午後から無断欠勤でして……。こちらとしても連絡が取れず、大変困っているんです』

無断、欠勤。
その言葉が、耳の中で何度も反響した。あの真面目な奏が?連絡もなしに会社を休むなんて、ありえない。絶対に、ありえない。

「そん、な……昨日、体調が悪いと早退した、とかは……?」
『いえ、特には。何の連絡もなく、ぱったりと……。もし、ご自宅に戻られたら、すぐに会社へ連絡するようお伝えいただけますか?』

電話を切った後、私はその場にへたり込んだ。頭が真っ白で、何も考えられない。奏に何かがあった。それだけは、確かだった。
そこから、私の悪夢が始まった。

まず、思いつく限りの共通の友人に片っ端から電話をかけた。

「もしもし、美咲?ごめん、急に。奏と連絡取れたりしてない?」
『え、奏くん?ううん、取ってないけど。どうしたの?喧嘩でもした?』
「ううん、そういうわけじゃなくて……昨日から、帰ってこなくて」

誰もが、一様に驚き、心配してくれた。けれど、誰一人として奏の行方を知る者はいなかった。「最近、何か悩んでる様子はなかったか」「仕事で疲れてるみたいじゃなかったか」。必死に尋ねる私に、誰もが「いつも通りだったよ」と答えるだけだった。その「いつも通り」という言葉が、逆に私の不安を掻き立てた。

数日が過ぎても、奏からの連絡は一切なかった。私は意を決して、最寄りの警察署に相談に行った。受付の若い警察官に事情を話すと、彼は面倒くさそうな顔で手元の書類に目を落とした。

「お名前は天羽奏さん、二十六歳。成人男性ですね」
「はい。昨日から、何の連絡もなく……事故とか、事件とかに巻き込まれたんじゃ……」
「うーん、まあ、失踪届は受理しますが、正直なところ、成人男性の家出となると、事件性がない限り、こちらとしても積極的に捜査するのは難しいんですよ」

家出。その言葉に、カッと頭に血が上った。

「家出なんかじゃありません!彼はそんな無責任な人じゃ……!」
「お気持ちはわかりますが、ご自分でどこかへ行かれた可能性が一番高いですから。何か進展があればご連絡しますので」

結局、私はまともに取り合ってもらえないまま、警察署を後にするしかなかった。社会は、なんて冷たいんだろう。一人で歩く帰り道、涙が止まらなかった。

最後の望みをかけて、私は奏の実家に電話をかけた。彼のご両親とは一度だけ会ったことがある。とても優しくて、温かい人たちだった。そんな人たちに、息子が行方不明になったなんて、どう伝えればいいのか。受話器を握る手が、汗でじっとりと濡れていた。
何度も深呼吸を繰り返し、やっとの思いで番号を押す。電話に出たのは、奏のお母さんだった。

「もしもし、夜分に申し訳ありません。私、奏さんとお付き合いさせていただいている、月詠詩織と申します」
『あら、詩織ちゃん。どうしたの、改まって』
「あの……大変申し上げにくいのですが、奏さんが、数日前から家に帰ってこなくて……会社にも行っていないようで……。もしかしたら、ご実家にご連絡があったりしないかと思いまして……」

私の言葉に、電話の向こうの空気が凍りついたのがわかった。数秒の沈黙の後、お母さんの震える声が聞こえてきた。

『……いいえ、奏からは、何も連絡はないわよ……?』

その言葉が、私の最後の希望を打ち砕いた。私は電話口で泣き崩れ、事情を説明するしかなかった。お母さんも動揺しながら、「こちらでも心当たりを探してみる」と言ってくれたが、その声には力がなかった。

がらんとした、二人で暮らした部屋に戻る。奏がいないだけで、こんなにも広く、冷たく感じるなんて。彼の私室のドアを、恐る恐る開けてみる。本棚も、デスクも、いつもと何も変わらない。ただ、デスクの上に置いてあったはずのノートパソコンが、忽然と消えていた。そして、クローゼットの中の服が、少しだけ減っているような気がした。
嫌な予感が、背筋を駆け上る。これは、計画的な失踪?

でも、どうして?なんで?
その時、ふと、脳裏をよぎった。

――私のせい……?

奏がいなくなった日。私は、玲さんとこの部屋にいた。もし、それを奏に見られていたら?
いや、そんなはずはない。玲さんが帰った後、奏が帰ってくるまでには、まだ時間があったはずだ。それに、もし見ていたなら、奏は絶対に黙っているような人じゃない。私を問い詰めるはずだ。怒鳴りつけるかもしれない。でも、何も言わずに消えるなんて、そんな……。
私は必死に、その可能性を頭から打ち消した。違う。絶対に違う。奏は、私の浮気なんて知らない。知るはずがない。
きっと、彼は仕事のプレッシャーに耐えきれなくなって、一人でどこかへ心を休めに行ってしまったんだ。そうに違いない。もしくは、本当に何か不運な事件に巻き込まれて、連絡が取れない状況にいるのかもしれない。

そうだ、私は悲劇のヒロインなんだ。突然消えてしまった恋人を、健気に待ち続ける、可哀想な女。
そう思い込むことでしか、私はもう正気を保てなかった。

不安と孤独に押しつぶされそうになった私は、スマホを手に取った。そして、唯一この秘密を共有している、玲さんの番号を呼び出す。数コールで、彼は電話に出てくれた。

「もしもし、詩織?どうした、こんな時間に」
「玲さん……っ、どうしよう……奏が……」

私は堰を切ったように、ここ数日の出来事を彼に話した。奏が帰ってこないこと。会社にも行っていないこと。誰に連絡しても行方がわからないこと。私の声は、自分でも情けないと思うほど震えていた。

『なんだって?それは大変じゃないか。警察には言ったのか?』
「言ったけど、ちゃんと捜査してくれなくて……」
『そうか……。大丈夫だ、詩織。きっとすぐにひょっこり帰ってくるさ。男ってのは、時々一人になりたい時があるもんだよ』

玲さんの落ち着いた声を聞いていると、不思議と少しだけ気持ちが安らいだ。彼はいつもみたいに、大人びた優しい言葉で私を慰めてくれる。

「でも、不安で……私、どうしたら……」
『今は、待つしかない。俺でよければ、いつでも話を聞くから。一人で抱え込むなよ』
「うん……ありがとう、玲さん……」

電話を切った後、私はベッドに潜り込んだ。奏の匂いがまだ残る枕に顔を埋め、ぎゅっと目を閉じる。玲さんの言葉が、暗闇の中の一筋の光のように思えた。彼の瞳の奥に、ほんの一瞬よぎった冷めた光にも気づかないまま、私はただ、彼の優しさに縋り付くことしかできなかった。

奏、どこにいるの。
早く帰ってきて。
お願いだから、私の前からいなくならないで。

答えの返ってこない問いを、暗く静まり返った部屋の中で、私は何度も、何度も繰り返していた。