第1話 始まりと消せない過去
薄曇りの空の下、放課後の教室はざわめきに満ちていた。ユウキは窓際の一番後ろの席で、ぼんやりとグラウンドを眺めていた。彼の視線の先には、体育館へと続く渡り廊下を、颯爽と歩く人影があった。
「リナ……」
思わず口からこぼれたのは、幼馴染の名前だった。黒髪を靡かせ、背筋をピンと伸ばした彼女の姿は、まるで絵画のようだった。学年で知らない者はいない、誰もが憧れる生徒会長、高瀬リナ。頭脳明晰、文武両道、清楚で可憐。完璧という言葉が、彼女のためにあるかのようだった。
ユウキとリナは、小学校からの幼馴染だ。家も隣同士で、小さい頃からずっと一緒にいた。ユウキは、リナの飾らない笑顔が、誰にも見せない甘えた声が、何よりも好きだった。そして、きっとリナも、自分の隣にいる時だけ見せる、あの優しい表情が好きでいてくれていると、そう信じていた。互いに言葉にはしないけれど、確かにそこには、甘く、柔らかな両片思いが育っていた。
「ユウキ君、まだいたの?」
突然、背後から声がして、ユウキはびくりと肩を震わせた。振り返ると、そこには、まさに今、心の中で思い描いていたリナが立っていた。彼女の顔には、いつもの完璧な笑顔が浮かんでいる。
「リナ……。ああ、うん、ちょっとね」
ユウキは慌てて言葉を濁した。心臓がドクドクと音を立てる。リナは、ユウキの前の席に座り、教科書を広げた。
「そう。明日の生徒会室の鍵、私が持ってるから、朝、私より早く来ても開かないわよ」
「うん、分かってるよ。いつもありがとう」
ユウキは、リナの整った横顔を見つめた。彼女の澄んだ瞳の奥に、何か隠されたものがあるような気がした。それは、一瞬の、本当に一瞬の、戸惑いのような、影のようなものだった。
リナは、完璧な生徒会長を演じていた。その裏には、彼女だけが知る、ひた隠しにしている過去があった。中学校の頃、リナは、ある先輩グループに憧れていた。そのグループは、学園内で絶大な権力を持つ、いわゆる「スクールカースト」の頂点に立つ存在だった。彼女は、どうしてもその一員になりたかった。
そのために、リナは、ある過ちを犯した。ユウキの、誰にも言っていない秘密を、そのグループの先輩たちに話してしまったのだ。ユウキが、あるゲームの大会で、実は不正行為をして優勝していたという、些細な、しかし彼にとっては屈辱的な秘密。それを知った先輩たちは、面白半分にユウキをいじめの標的にした。陰湿な嫌がらせが、毎日のように続いた。
リナは、そのいじめの首謀者の一人だった。彼女は、先輩たちに気に入られたくて、必死にユウキを嘲笑し、突き放した。その時のユウキの、傷つき、絶望に満ちた顔が、今でも鮮明に脳裏に焼き付いている。
いじめは、約半年続いた。ユウキは学校に来られなくなり、リナは、そこでようやく自分が何をしてしまったのかを悟った。先輩グループに居場所はできた。しかし、その代償は、あまりにも大きすぎた。ユウキが、二度と自分と目を合わせようとしなくなったのだ。
その後、ユウキは転校し、いじめは自然消滅した。リナは、罪悪感に苛まれ、ユウキを失ったことを深く後悔した。そして、高校に入学して、ユウキが再び自分の隣に現れた時、リナは、完璧な生徒会長を演じることで、過去の罪を償おうと決意した。
「リナ、次の数学の小テスト、範囲どこだっけ?」
ユウキの声に、リナは我に返った。彼女は、いつもの笑顔を貼り付けて答える。
「ええと、たしか…」
ユウキは、リナが真剣に教科書を捲る姿を見つめた。彼女の整った横顔に、一筋の光が差し込む。
「リナ」
「何?」
ユウキは、意を決して口を開いた。
「俺さ、お前に言いたいことがあるんだ」
リナの指が、ピタリと止まった。彼女の顔から、笑顔が消える。
「……何?」
ユウキは、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「俺、リナのことが……」
その時、教室の扉が勢いよく開いた。
「高瀬!生徒会室、急いでくれ!」
息を切らせて駆け込んできたのは、生徒会副会長の男子生徒だった。リナは、ユウキの方をちらりと見て、すぐに立ち上がった。
「ごめんなさい、ユウキ君。生徒会の仕事があるから、また後で」
そう言って、リナは足早に教室を出て行った。ユウキは、開いた口が塞がらないまま、彼女の背中を見送った。
「……言えなかったな」
ユウキは、膝から崩れ落ちるように椅子に座り込んだ。しかし、その表情は、告白できなかったことへの落胆だけではなかった。どこか、安堵しているような、そして、得体のしれない、薄暗い感情が渦巻いているようにも見えた。
その日の放課後。ユウキは、昇降口でリナを待っていた。しかし、いくら待っても、リナは現れない。ユウキは、彼女がまだ生徒会室にいるのだろうと思い、生徒会室へと向かった。
生徒会室のドアは、少しだけ開いていた。中から、リナの声が聞こえてくる。
「……だから、あの時のことは、絶対に誰にも言わないでって言ったでしょ!あれがバレたら、私の生徒会長としての立場が、全部台無しになるんだから!」
それは、いつもの生徒会長としての、完璧なリナの声ではなかった。焦り、苛立ち、そして、恐怖。普段のリナからは想像もできない、剥き出しの感情が、声に乗って漏れ聞こえてくる。
ユウキは、思わずドアの隙間から中を覗き込んだ。生徒会室には、リナと、生徒会会計の男子生徒がいた。リナは、その男子生徒に詰め寄っている。
「お願いだから、あの時のことは黙っててよ!ねぇ、私だって、別に好きでやったわけじゃないんだから!」
「でもさ、高瀬さん。あの時のいじめの件、結構ひどかったじゃないですか。あんなこと、ユウキにバレたらどうなるか…」
「ユウキには絶対にバレない!あいつは、何も知らないお人好しなんだから!」
その言葉が、ユウキの耳に、まるで鈍器のように響いた。彼の全身から血の気が引いていく。ユウキは、自分が何を言われているのか理解できなかった。いじめ?自分?
「それに、あの時、私を先輩たちのグループに入れてもらうために、あいつの秘密をバラしたんでしょ?高瀬さん、全部知ってたじゃないですか!」
「黙って!もう、いい加減にしてよ!」
リナの声が、悲鳴のように響いた。
ユウキの頭の中で、パズルのピースが、カチリと音を立ててはまる。中学校の時、自分が標的になった、あの陰湿ないじめ。そして、その首謀者の一人だったという、リナの言葉。
「ユウキは何も知らないお人好し」
その言葉が、何度も何度も、ユウキの脳内で繰り返される。
愛していた幼馴染の、残酷な裏切り。その瞬間、ユウキの中で、何かが音を立てて崩れ落ちた。愛は、憎悪へと変貌し、彼の心は、底なしの闇へと沈んでいく。
ユウキは、ゆっくりと、生徒会室のドアから離れた。その顔には、先程までの淡い恋心は、もうどこにもなかった。ただ、冷たく、そして、歪んだ光が宿っていた。
彼の脳裏には、リナへの復讐計画が、静かに、そして、明確に、組み立てられ始めていた。