第1話 運命の出会いと純愛の始まり〜聖女様、俺が必ず君を幸せにしてみせる!〜
意識が浮上する直前、俺の耳にはまだ老教授の単調な声がこびりついていた。経済史の退屈な講義、鳴り続けるスマホのバイブ、そして抗いがたい眠気。それが、俺、綺羅星輝(きらほし てる)の最後の記憶だった。
次に目を開けた時、視界に飛び込んできたのは大学の大講義室ではなく、天井から巨大なシャンデリアが吊り下げられた、途方もなく豪奢な広間だった。磨き上げられた大理石の床、壁にかけられた勇壮なタペストリー、そして正面には、いかにもといった感じの立派な玉座。
「おお、目覚められましたか、勇者殿!」
玉座の前に立つ、金糸で縁取られたローブをまとった恰幅の良い初老の男が、安堵の声を上げた。状況が全く飲み込めない俺を前に、彼はアルフォンス三世と名乗り、このアークライト王国の国王であること、そして俺が古の儀式によって召喚された異世界の勇者であることを、丁寧に、しかし切羽詰まった様子で説明した。
魔王の軍勢が世界を蹂躙し、人類の存亡が風前の灯火であること。この危機を打開できるのは、伝説の勇者ただ一人であること。
話の内容は荒唐無稽そのものだったが、俺の心は不思議と冷静だった。いや、冷静というよりは、高揚感に支配されていた。
視界の端に、まるでゲーム画面のような半透明のウィンドウが浮かんでいる。そこには『綺羅星 輝 LV1 職業:勇者』と表示され、元の世界では考えられないような驚異的なステータス値が並んでいた。身体の奥底から、経験したことのない力がみなぎってくるのが分かる。
勇者。俺が?
平凡な大学生活、その他大勢のサークルメンバー、バイト先では後輩にすら軽く扱われる日々。そんな俺が、世界を救う英雄だって?
込み上げてくる笑いを抑えるのに必死だった。これは夢じゃない。現実だ。俺は、選ばれたんだ。
「お引き受けいただけますかな、勇者殿。この世界を、我ら民を、魔王の脅威から救ってはいただけませぬか」
国王の悲痛な問いに、俺は芝居がかった仕草でひとつ頷くと、自信に満ち溢れた声で答えた。
「もちろんです。この綺羅星輝が、必ずや魔王を打ち倒し、この世界に平和を取り戻して見せます」
我ながら完璧な台詞回しだった。国王も、後ろに控えていた大臣らしき人々も、感動したように顔を輝かせている。そうだ、もっと俺を見ろ。お前たちの絶望を希望に変える、唯一の存在を。
「おお、なんと心強いお言葉! さすがは召喚されし勇者様! それでは、貴殿の旅を支える、我らが誇る仲間たちを紹介いたしましょう」
国王の言葉に応じるように、背後の重厚な扉がゆっくりと開かれた。
まず現れたのは、全身を分厚い鋼の鎧で固めた大男。背負った大剣も相まって、岩のような威圧感を放っている。戦士といったところだろう。次に、深い青色のローブをまとった知的な雰囲気の女性。手にした杖には大きな魔石が嵌め込まれており、一目で高位の魔法使いだと分かった。
そして、三番目に、彼女が姿を現した。
その瞬間、玉座の間の空気が変わった、と俺は本気で思った。
純白を基調とした神官服は、彼女の汚れのない魂をそのまま形にしたかのようだ。陽光を溶かして束ねたような柔らかな金色の髪が、肩のあたりで緩やかに波打っている。長い睫毛が伏せられた白い横顔は、まるで精巧な彫刻のようだった。
やがて、彼女は静かに顔を上げ、その視線が俺と交錯する。
吸い込まれそうになる、紫水晶の瞳。ただ美しいだけじゃない。その奥に、泉の底のような静けさと、どこか触れれば壊れてしまいそうな儚い光が宿っていた。
ドクン、と心臓が大きく脈打つ。世界から音が消え、俺と彼女だけが存在しているかのような錯覚。これが、運命の出会いというやつか。俺は、この瞬間のために異世界に呼ばれたのだと、何の疑いもなく確信した。
「彼女が、今代の聖女、リリアンヌ・フォン・クロイツェル様です。勇者様、彼女の類まれなる回復魔法と神聖なる加護が、必ずや貴殿の力となるでしょう」
リリアンヌ。その名前の響きすら、まるで美しい音楽のように俺の鼓膜を震わせた。
俺はほとんど無意識のうちに彼女の前まで歩み寄り、ヨーロッパの騎士がそうするように、恭しく片膝をついた。そして、ためらうことなく彼女の白い手を取る。シルクのように滑らかなその感触に、再び心臓が跳ねた。リリアンヌは僅かに驚いたように紫水晶の目を見開いたが、俺の手を振り払うことはしなかった。
「聖女様。俺は勇者の綺羅星輝。どうか、てる、と呼んでください」
「……はい」
吐息のような、か細い返事。それすらも愛おしい。
「必ず、君を……いえ、この世界を救ってみせる。だから、どうか俺のそばにいてほしい」
滑らかな言葉が、自然と口からあふれ出た。これは紛れもない本心だ。魔王討伐は当然の使命。だが、それ以上に、この儚く美しい聖女様を守り抜くことこそが、俺に与えられた真の天命なのだ。
「……勇者様の旅路をサポートするのが、私の役目ですから」
リリアンヌは静かにそう答えると、俺の手からそっと自分の手を引き抜いた。その声は鈴が鳴るように可憐だったが、どこか感情の起伏が感じられないようにも聞こえた。
だが、そんな些細なことはどうでもよかった。きっと、初対面の男にいきなり手を握られて、動揺しているに違いない。なんて初々しくて、守ってあげたくなる人なんだろう。
こうして、俺の輝かしい異世界での冒険は、戦士ゼニス、魔法使いセレスティナ、そして最愛の聖女リリアンヌという、最高の仲間たちと共に幕を開けた。
旅は、驚くほど順調に進んだ。
勇者という職業は伊達ではなく、俺の振るう聖剣は面白いように魔物を屠っていく。ゼニスの鉄壁の防御と、セレスティナの殲滅魔法も非常に頼りになった。
だが、俺の力の源泉は、何よりもリリアンヌの存在そのものだった。
どんなに強力な魔物の攻撃を受けて傷を負っても、彼女が静かに祈りを捧げ、その白い手が俺に触れるだけで、痛みは嘘のように消え去り、傷は瞬く間に塞がっていく。その姿は、後光が差しているように見え、まさしく降臨した女神そのものだった。
そんな彼女に、俺が恋い焦がれるのは当然の帰結と言えるだろう。俺は旅の道中、持てる限りの語彙と情熱を注ぎ込み、彼女へのアプローチを続けた。
「リリアンヌちゃん、おはよう! 今日の髪飾りもすっごく可愛いね! 俺がこの前、街で選んだやつ、気に入ってくれた?」
ある朝、野営地で焚き火の火力を調整しながら、祈りを終えた彼女に声をかける。俺が贈った青いリボンの髪飾りは、まだ彼女の髪を彩ったことはない。
「……ありがとうございます。ですが、これは神殿から支給されたものですので」
リリアンヌは表情一つ変えず、そう言って一礼した。きっと、俺からのプレゼントは特別すぎて、汚したり失くしたりするのが怖くて使えないんだろう。わかる、わかるぞその乙女心。大事にしまってくれているだけで、俺は幸せだ。
「リリアンヌちゃんは、好きな食べ物とかある? 俺、実は料理もちょっとだけできるんだぜ? 魔王を倒したら、毎日君のために腕を振るうよ!」
魔獣が闊歩する荒野を行軍しながら、隣を歩く彼女に話しかける。
「……好き嫌いはありません。回復に専念しますので、お構いなく」
素っ気ない返事。だが、俺には分かる。これは、俺に余計な気を使わせまいとする、彼女なりの優しさなのだ。なんて健気で心優しい子なんだろう。
少し離れた後方で、ゼニスとセレスティナが何かヒソヒソと話しているのが見えたが、気にしてはいられない。きっと、俺たちの仲を微笑ましく見守ってくれているに違いない。
そして、旅が始まって一月ほど経った、月が綺麗な夜だった。
仲間たちが寝静まった後、俺は一人、野営地から少し離れた岩場に腰掛けて夜空を見上げるリリアンヌの姿を見つけた。月光を浴びる彼女の横顔は、この世のものとは思えないほど幻想的で、俺は意を決してその隣に腰を下ろした。
「リリアンヌちゃん。少しだけ、いいかな。俺の、本気の想いを聞いてほしい」
彼女は何も言わず、ただ静かに俺の方へ顔を向けた。その紫水晶の瞳が、真剣な光を帯びたように見えた。
「俺さ、君に一目惚れしたんだ。初めて会った、あの玉座の間で。君を見た瞬間、雷に打たれたみたいに衝撃が走った。この人を守るために、俺はこの世界に来たんだって、本気でそう思ったんだ」
「……」
「だから、お願いがある。俺が魔王を倒したら、結婚を前提に、俺と付き合ってください!」
俺は立ち上がり、彼女の前に跪いて、精一杯の誠意を込めて頭を下げた。
夜の静寂の中、風の音だけが聞こえる。やがて、彼女の静かな声が俺の頭上から降ってきた。
「……今は、魔王討伐のことだけを考えましょう。私語は慎んでください、勇者様。魔物が寄ってきます」
そう言って、彼女はすっと立ち上がると、一人で仲間たちの眠る焚き火の方へと戻ってしまった。
残された俺は、しかし、全く落ち込んではいなかった。むしろ、心の中は歓喜の嵐が吹き荒れていた。
『今は』だ。彼女は、そう言った。その言葉の意味が分からないほど、俺は鈍感じゃない。今は魔王討伐に集中すべき時。でも、それが終わった後なら、考えてくれるということじゃないか!
それに、きっと照れてしまったんだ。間違いない。こんなロマンチックなシチュエーションで、真正面から告白されて、平常心でいられる女の子なんていやしない。あの素っ気ない態度も、俺から離れてしまったのも、全部が照れ隠しなんだ。ああ、なんて可愛らしくて奥手な人なんだろう!
この夜を境に、俺のポジティブな確信は、揺るぎないものへと変わった。
彼女の塩対応は「男慣れしていない純粋さの表れ」。
俺を避けるような素振りは「二人きりになると緊張して、どうしていいか分からなくなってしまうから」。
ゼニスやセレスティナと話している時のほうが少しだけ表情が和らいでいるように見えるのは「俺の前だと素直になれず、つい意地を張ってしまうから」。
すべてが、俺の脳内で完璧なラブストーリーのピースとして組み上がっていく。ゼニスが時折、何か言いたげな顔で俺を見ては深いため息をつこうが、セレスティナが面白くてたまらないといった表情でニヤニヤしていようが、もはや俺の目には入らなかった。
俺は旅の合間を縫って、王都に定期的に手紙を送ることも忘れなかった。送り先は、国王アルフォンス三世と、神殿のトップである大司祭。
『魔王討伐の暁には、褒賞として聖女リリアンヌ様を俺の妻として賜りたく存じます』
最初は少し遠回しに、しかし旅が進むにつれて戦果を報告するのと一緒に、どんどんストレートに想いを綴った。返ってくる手紙には、いつも「まずは魔王討伐に専念されよ」「勇者殿の活躍に期待している」といった、どこか歯切れの悪い言葉が並んでいたが、俺はそれも「分かっているから、まずは目の前の使命を果たしなさい」という、大人たちの激励だと受け取った。
よし、外堀は完全に埋まった。
あとは、魔王を倒すという最大の功績を打ち立てるだけ。そうすれば、リリアンヌちゃんも、国も、神殿も、世界中の誰もが、俺たちの結婚を祝福してくれるはずだ。ハッピーエンドは、もう目の前にある。
「見ててくれよ、リリアンヌちゃん。俺が必ずあの魔王をぶっ倒して、君を世界一幸せな花嫁にしてみせるからな!」
決戦を目前にした最後の野営で、俺は魔王城の禍々しいシルエットが浮かぶ空に向かって、力強くそう誓った。
隣では、リリアンヌがいつものように無表情で祈りを捧げている。その神々しい横顔は、きっと俺の覚悟を静かに受け止めてくれているのだろう。
俺は彼女の無言を、何よりも雄弁な同意だと信じて疑わなかった。勝利の先にある、輝かしい未来を夢見ながら。