猛アタックをガン無視する聖女様、魔王討伐後に俺をぶっ飛ばして故郷の男の元へ帰りました

第2話 勇者様の求愛が鬱陶しいので、早く魔王を倒してノアの元へ帰りたいのですが

朝霧が立ち込める森の中、パチパチと頼りなく燃える焚き火の光が、周囲の木々を不気味に照らし出している。その光の中で、私はいつものように両手を組み、目を閉じて祈りを捧げていた。神聖なる御名において、我らに勝利の加護と道行きを照らす光を――。
形式だけの祈りを口の中で唱えながら、私の意識は全く別の場所にあった。

「リリアンヌちゃん、おはよう! 今日も女神みたいに美しいね! 寒くない? 俺の上着、着る?」

背後から聞こえてくる、朝からうんざりするほど快活な声。振り返るまでもなく、それが誰であるかは分かっている。勇者、綺羅星輝。この世界の人間が、救世主と崇める異世界からの来訪者。
私にとっては、ただの「騒がしい男」でしかない。

「おはようございます、勇者様。お気遣い痛み入ります。ですが、この神官服は聖なる力で守られておりますので、寒さは感じません」

ゆっくりと振り返り、私は完璧な微笑みを顔に貼り付けた。神殿で徹底的に叩き込まれた、聖女としての理想的な表情。感情を一切悟らせず、ただ相手に安心感と敬虔な気持ちを抱かせるための、精巧な仮面。

「そっか! さすが聖女様は違うなあ! でも、無理はしないでくれよな! リリアンヌちゃんが風邪でも引いたら、俺、心配で魔王と戦えないから!」

彼は心の底からそう思っているのだろう。その純粋な、あるいは単細胞なまでの真っ直ぐさが、私にはひどく滑稽に映った。心配? あなたが心配すべきは、私の体調ではなく、一刻も早く魔王を討伐し、私を故郷へ帰すことだけです。もちろん、そんな本心は欠片も口に出さないが。

「ありがとうございます。勇者様こそ、決戦を前にご自愛くださいませ。さあ、朝の祈りの続きを」

そう言って再び彼に背を向けると、ようやく静寂が戻ってきた。私は深く息を吸い込み、意識を故郷の村へと飛ばす。
……ノア。あなたは今、何をしているかしら。
もう狩りに出かける時間かしら。それとも、まだベッドの中で、私のことを夢見てくれている?
早く会いたい。あなたの温かい腕の中で、あなたの匂いに包まれて、もう一度眠りたい。
目を閉じれば、瞼の裏に彼の姿が鮮明に浮かび上がる。少し癖のある柔らかな黒髪、笑うと優しく細められる鳶色の瞳、ごつごつしているけれど、私を包み込む大きな手。
彼との何気ない日常のすべてが、私の宝物だった。村のそばの小川で魚を獲ったり、森で木の実を集めたり、夜には彼の家で、暖炉の火を見つめながら他愛もない話をする。彼が淹れてくれるハーブティーの香りを思い出すだけで、胸が締め付けられるように苦しくなる。

『リリは、俺が絶対に守るから』
『ううん、違うわ。私が、ノアを守るの。何があっても、誰からも』

神殿の者たちが村にやって来て、私を「聖女」として連れて行こうとした日。最後まで抵抗し、私の前に立ちはだかってくれたのはノアだった。村の誰もが、神殿の権威の前に為すすべなく平伏する中で、彼だけが、猟で使う弓を構え、私を渡すものかと叫んでくれた。
もちろん、神殿の騎士たちに彼が敵うはずもなかった。打ちのめされ、地に伏した彼を見て、私は自ら神殿の馬車に乗ることを選んだ。そして、去り際に彼にだけ聞こえるように囁いたのだ。
『必ず、帰ってくるから。待っていて』
そう約束した。だから、私はここにいる。勇者の隣で、聖女の役を演じている。すべては、ノアの元へ帰るため。彼との穏やかな生活を取り戻すため。

この一年、私の行動原理は、ただその一点のみに集約されていた。
聖女リリアンヌ・フォン・クロイツェル。それは神殿が私に与えた、ただの名前と役割だ。本当の私は、辺境の村で暮らす、ただの「リリ」。ノアを愛し、ノアに愛されるためだけに存在する女。
王や神官たちが、私の膨大な神聖力量を見て「奇跡だ」「神の御心だ」と騒ぎ立てたが、彼らは何も分かっていない。私のこの力は、神に与えられた祝福などではない。むしろ、呪いだ。
彼らが観測できているのは、私が【隠蔽】のスキルで見せている、力のほんの上澄みに過ぎない。もし私が本気になれば、神聖力という名の膨大なエネルギーを物理的な破壊力に転換し、今目の前にそびえる魔王城ごと、この一帯を更地に変えることすら可能だ。魔王など、勇者の力を借りずとも、私一人で十分に蹂躙できる。

だが、そんなことをすればどうなる?
「真の勇者は聖女様だった」「どうか、魔王のいなくなったこの世界を、そのお力でお導きください」
そう言って、人々は私を新たな偶像に祭り上げ、王城か神殿の奥深くに幽閉するだろう。そうなれば、二度とノアの元へは帰れない。
だから、私はこの世界の筋書きに乗ることにしたのだ。「異世界から召喚された勇者が、聖女や仲間たちと共に魔王を倒す」。この陳腐な英雄譚こそが、私が最も早く、そして確実に故郷へ帰るための最短ルート。
勇者テルは、その物語を完結させるための、最も重要な「駒」であり「武器」。だから私は、彼を生かさなければならない。彼に、魔王を倒させなければならない。彼の功績として、すべてを終わらせる必要があるのだ。

「リリアンヌちゃん! 危ない!」

思考に深く沈んでいた瞬間、鋭い声と共に腕を強く引かれた。ハッと我に返ると、つい先ほどまで私が立っていた場所に、巨大な鎌を持ったカマキリ型の魔物が薙ぎ払うようにして腕を振り下ろしていた。斥候の魔物を見落としていたらしい。

「大丈夫か、リリアンヌちゃん!?」

勇者テルが、私を庇うように前に立つ。その背中は広く、頼もしく見えた。だが、私の心は冷え切っていた。失態だ。ノアのことばかり考えていて、警戒を怠っていた。

「……申し訳ありません、勇者様。助けていただき、感謝いたします」

私は再び聖女の仮面を被り、しおらしく頭を下げた。

「いいんだ! 君が無事ならそれでいい! このクソ虫が!」

テルはそう叫ぶと、聖剣を抜き放ち、魔物へと躍りかかった。戦士ゼニスと魔法使いセレスティナも即座に戦闘態勢に入る。私は一歩下がり、パーティ全体に防御結界を展開しながら、戦況を見守る。
勇者は強い。それは確かだ。しかし、時折、その強さに溺れて無茶をする。今もそうだ。一体の斥候相手に、真正面から突っ込む必要などどこにもない。
案の定、魔物の素早い連続攻撃を受け、彼の鎧が弾け飛ぶ。

「ぐっ……!」
「勇者様!」

私は即座に高位回復魔法<ヒール>を詠唱する。彼の体から立ち昇っていた血煙が、聖なる光に包まれて霧散していく。

「サンキュー、リリアンヌちゃん! 愛してるぜ!」

彼は治癒されるや否や、また景気のいいことを叫んで反撃に転じた。
愛してる、か。何度その言葉を、この男の口から聞いたことだろう。そのたびに、私の心は苛立ちと嫌悪でささくれ立っていく。お前に愛していると言われて、私が喜ぶとでも? 私が愛しているのは、この世界のどこにもいない、たった一人の男だけだ。

戦闘中、私が最も神経を使うのは、回復魔法のタイミングではない。勇者が致命傷を負わないように、それでいて彼が「自分の力で勝った」と錯覚するように、力の配分を調整することだ。
今も、魔物が死角から勇者の首を狙って鎌を振り上げた瞬間、私は誰にも気づかれないよう、指先から極小の神聖力の楔を放ち、魔物の体勢をミリ単位でずらした。結果、鎌は勇者の兜を掠めただけで空を切る。
「危ねえ!」と叫ぶ勇者には、それがただの幸運か、自分の反射神経の賜物だとしか思えないだろう。
それでいい。お前は道化のままで、英雄の役を演じきってくれれば、それで。

戦闘が終わり、私たちは再び魔王城への道を進む。
道中、勇者は相変わらずだ。

「いやー、今の俺、超カッコよくなかった? リリアンヌちゃんを守るナイトって感じだったろ!」
「……はい。お見事でした、勇者様」
「だろー! 魔王を倒したらさ、結婚式の予行演習もしないとな! リリアンヌちゃんは、どんなドレスが着たい?」

ドレス。結婚式。その単語を聞くたびに、私の脳裏にはノアの顔が浮かぶ。
もし、私が誰かと添い遂げるのなら、それはノア以外にあり得ない。着飾る必要なんてない。村の教会で、彼と二人きりで誓いを立てられれば、それで十分。いいえ、誓いの言葉すらいらない。ただ、彼の隣にいられるのなら。

「……今は、魔王討伐のことだけを考えましょう」
「そうだよな! 分かってるって! でも、未来の計画を立てるのも、モチベーションになるだろ?」

この男のポジティブさは、時として私の精神を逆撫でする。王や神殿の偉い連中から、遠回しに「勇者様と結ばれてはどうか」という書簡が届くたびに、私はそれを暖炉の火にくべてきた。彼らが何を企んでいようと、私の答えは変わらない。すべてが終われば、私は帰る。ただそれだけだ。
彼らは私の本当の力を知らない。知っていたら、勇者と結婚させようだなどという、愚かな考えは起こさないだろう。私を力で縛り付けることなど、この世界の誰にもできはしないのだから。

「……もうすぐ、ですね」

不意に、隣を歩いていた魔法使いのセレスティナが、私にだけ聞こえるような声で囁いた。

「何が、ですか?」
「あなたの、長いお勤めも。もうすぐ終わる」

彼女の瞳は、いつも何かを見透かしているようで、少しだけ苦手だった。

「……ええ。そう願っています」
「故郷で、待っている方がいらっしゃるのでしょう?」

ドキリとした。私の完璧な仮面を、この女は見破っているというのか。

「……どうして、そう思われますか?」
「あなたの瞳です。勇者様を見ている時と、遠くを見つめている時で、宿る光が全く違う。まるで、魂の半分をどこか遠い場所に置いてきたかのような……そんな目をしていますから」

私は何も答えなかった。肯定も、否定も。セレスティナはそれ以上何も言わず、ふっと微笑んで前を向いた。
彼女の言う通りだ。私の魂の半分どころか、そのほとんどは、今もノアのそばにある。ここにいるのは、目的を遂行するためだけの、抜け殻に近い何かだ。

魔王城の威容が、いよいよ間近に迫ってきた。禍々しい瘴気が肌を刺す。
私の願いは、ただ一つ。
一刻も早く、この茶番を終わらせること。
勇者という駒に、最後の役目を果たさせること。
そして、すべてのしがらみを断ち切り、愛しい、愛しいノアの元へ帰ること。

「さあ、行くわよ、ノア。邪魔者は、もうすぐすべて片付くから。もう少しだけ、待っていてね」

誰にも聞こえない声で、私は愛しい人の名を呟く。
その瞳には、勇者にも、仲間にも、神々でさえも見せることのない、狂気的なまでの愛情と執着の炎が、静かに燃え盛っていた。