第1話 静かに狂い始めた時計の針
東京の空は、夜の帳が下りても決して完全な暗闇にはならない。オフィスの大きな窓ガラス越しに見下ろす街は、無数の人工的な光で埋め尽くされ、まるで巨大な生き物が呼吸をしているかのように点滅を繰り返している。オフィスの壁に掛けられたシンプルな時計の針は、すでに午後十時を回ろうとしていた。
中堅IT企業「ネクスト・コア・ソリューションズ」の営業部に所属する佐藤悠真は、凝り固まった肩を回しながら大きく一つ伸びをして、手元のノートパソコンをシャットダウンした。黒い画面に反射した自分の顔は、隠しきれない疲労で少し老け込んで見えた。
「佐藤さん、今日もお疲れ様です。こんな時間まで残っていただいて、本当に助かりました」
隣のデスクで帰り支度をしていた後輩の社員が、申し訳なさそうな表情で声をかけてくる。悠真は小さく首を振り、いつものように人当たりの良い穏やかな笑みを浮かべた。
「気にしないで。今月の部署のノルマはチーム全体で達成しないといけないからね。君も明日からまた外回りだろうから、今日は早く帰ってしっかり休んで」
「ありがとうございます。お先に失礼します」
事なかれ主義、と自分でもよく分かっている。波風を立てるのが嫌いで、誰かが泥を被らなければならない状況なら、自分が少しだけ余分に汗を流せば丸く収まる。そうやって三十代半ばまで、大きな失敗もなく、かといって目立つような大成功もないまま、平穏で無難な人生を歩んできた。野心がないと揶揄されることもあったが、それでも、いまの生活には十分すぎるほど満足していた。
会社のビルを出ると、季節外れの冷たい夜風が首筋を撫でた。スーツの襟を立てて駅へと向かいながら、悠真の足取りは自然と軽くなる。帰る場所がある。待っていてくれる人がいる。その事実だけで、日中の理不尽なクレームや、上司からのプレッシャーによるストレスは薄らいでいくのだ。
最寄り駅から徒歩十分の距離にある、築浅の分譲マンション。三年前に三十五年のローンを組んで購入した、悠真と妻の美咲のささやかな城だ。駅前のコンビニで美咲が好きなプリンを二つ買い、少し冷えた夜道を歩く。
玄関のドアノブに手をかけ、鍵を開ける。カチャリという小さな金属音とともに重い扉を押し開けると、廊下の奥から温かなオレンジ色の光と、出汁の効いた美味しそうな匂いが漏れ出してきた。
「ただいま」
「あっ、悠真。おかえりなさい。遅かったね、今日も本当にお疲れ様」
リビングの扉が開き、薄いピンク色のエプロン姿の美咲が顔を出した。結婚して五年になるが、彼女はいつも変わらない、花が咲いたような笑顔で出迎えてくれる。専業主婦として家を完璧に守ってくれる彼女の存在は、悠真にとって何よりも得難い安らぎであり、人生の基盤だった。
「ごめん、クライアント先でのトラブル処理で少し手間取っちゃって。夕飯、温め直してもらえるかな」
「もちろん。すぐ準備するから、手洗って着替えてきちゃって。お風呂もすぐ入れるようにしておくね」
寝室で窮屈なスーツを脱ぎ、着慣れた部屋着に着替えると、一日中肩にのしかかっていた重荷が完全に下りた気がした。リビングに戻ると、木目の美しいダイニングテーブルにはすでに食事が並べられている。サバの味噌煮、ほうれん草の胡麻和え、だし巻き卵、そして具沢山の豚汁。どれも悠真の好物ばかりで、栄養バランスも完璧に計算されている。
「いただきます」
「はい、召し上がれ。今日のサバ、お魚屋さんですごく良いのが入ってたの。味付け、ちょっと濃かったかな?」
「いや、ちょうどいいよ。すごく美味しい。美咲の料理を食べると、本当に疲れが吹き飛ぶよ。いつもありがとう」
悠真がそう言って微笑むと、美咲は嬉しそうに目を細め、自分の席についた。元来の寂しがり屋で、少し甘えん坊なところがある彼女。悠真が仕事で多忙を極め、遅く帰る日が続くと、口には出さないものの少し拗ねたような態度を見せることもあった。それでもこうして毎日、温かい食事を作って文句も言わずに待っていてくれる。平凡だが、確かな幸福がここにはあった。
食事を進めながら、悠真はふと、今日の美咲がいつもより口数が多いことに気がついた。昼間に見たテレビのワイドショーの話、近所のスーパーの特売で安く買えた野菜の話、ベランダで新しく育て始めたハーブの話。次から次へと話題を提供し、彼女はよく笑い、身振り手振りを交えて話す。
「それでね、隣の奥さんがその時に……あ、ごめんね、私ばっかり喋っちゃって。悠真、疲れてるのに」
「全然。美咲の話を聞いてるの、楽しいから。俺のほうこそ、いつも仕事の話ばかりでつまらない思いをさせてるし。何か良いことでもあった?」
「えっ?」
悠真の何気ない問いかけに、美咲の箸がピタリと止まった。ほんの一瞬だけ、彼女の表情からスッと笑顔が抜け落ちたように見えた。だが、それは瞬きをする間に元の明るい顔へと戻り、気のせいだったのかと思わせるほど自然な所作だった。
「ううん、別に。ただ、今日は悠真とゆっくり話せる時間があって嬉しいなって思って」
「そっか。最近、本当に忙しくて構ってやれなかったからな。今度の週末は仕事も落ち着きそうだし、久しぶりにどこか出かけようか。美味しいイタリアンでも食べに行く?」
「うん、行きたい!……でも、その前に、悠真に話さなきゃいけないことがあって」
美咲は箸を置き、テーブルの下で両手をぎゅっと握りしめた。その態度が急に改まったものになったため、悠真も食事の手を止め、箸を箸置きに揃えてから彼女をまっすぐに見つめた。何か深刻な話だろうか。実家の両親の体調不良か、それとも近所付き合いでのトラブルか。
「どうした? そんなに深刻な顔をして」
「あのね、悠真」
美咲は一度大きく深呼吸をした。そして、潤んだ瞳で悠真を見つめ返し、わずかに震える声で告げた。
「私……妊娠、したみたいなの」
一瞬、悠真の思考が完全に停止した。言葉の音は耳から入ってきたが、その意味が脳内で処理されるまでに数秒の時間を要した。妊娠。それはつまり、二人の間に新しい命が宿ったということだ。結婚して五年、なかなか子供ができず、美咲が焦りやプレッシャーを感じていたことは痛いほど知っていた。
「本当か? 病院には行ったの?」
「うん。今日の午前中に行ってきて、先生にも確実だねって言われたの。まだ初期の初期だから、絶対に安心とは言えないみたいだけど……でも、私、すごく嬉しくて。ずっと、ずっと悠真の子供が欲しかったから」
涙ぐみながら、しかし満面の笑みを浮かべる美咲を見て、悠真の口からも自然と喜びの言葉がこぼれ出た。
「そうか……そうか! おめでとう、美咲。本当にありがとう。俺たち、親になるんだな。なんか、まだ実感湧かないけど、すげえ嬉しいよ」
悠真は立ち上がり、テーブル越しに美咲の手を強く握った。美咲は安心したように大粒の涙をこぼし、悠真の手に自分の両手を重ねてきた。幸せな瞬間だった。絵に描いたような、理想的な夫婦の姿。何の問題もない、愛に溢れた空間。
しかし、悠真の心の奥底で、小さな、本当に小さな黒い染みのような違和感が生まれつつあった。
(妊娠……。最後に俺が美咲を抱いたのは、いつだったか?)
歓喜の言葉を口にしながらも、悠真の冷徹な理性の部分が、無意識のうちに頭の中のカレンダーの日付を猛スピードで遡っていた。この二ヶ月ほど、大型プロジェクトの立ち上げで悠真は連日深夜帰宅が続いていた。週末も休日出勤が多く、家に帰っても疲労困憊で、ベッドに入るなり泥のように眠る日々だった。夫婦の営みは、確実に減っていた。いや、はっきりと思い出せないほど、ご無沙汰だったはずだ。
もちろん、回数が少ないからといって確率がゼロになるわけではない。たまたま早く帰れた日に、タイミングが合った日があったのかもしれない。だが、この微かな記憶のズレが、悠真の胸に得体の知れない不安の種を植え付けた。
「ごめんなさい、私、ちょっとお化粧室に行ってくるね。泣いちゃって顔がぐちゃぐちゃだ。せっかくの嬉しい報告なのに」
美咲は照れ隠しのように笑い、ハンカチを手にリビングを出て行った。パタンと扉が閉まる音が響く。残された悠真は、再び椅子に腰を下ろし、完全に冷めきった豚汁をぼんやりと見つめた。自分の不純な考えを打ち消すように、頭を軽く振る。
(俺はなんて最低な男なんだ。美咲がこんなに喜んでるのに、疑うようなことを考えるなんて。疲れてるんだ、俺は)
仕事のプレッシャーと睡眠不足のせいで、ネガティブな思考になっているだけだ。そう自分に強く言い聞かせる。彼女は一日中、専業主婦として家を守り、俺の帰りを待っていてくれる貞粛な妻だ。疑う理由などどこにもない。俺たちは愛し合っている。
ふと、テーブルの端に置かれた美咲のスマートフォンが視界に入った。普段なら、妻のスマホなど気にも留めない。個人のプライバシーはお互いに尊重すべきだという暗黙のルールがあったからだ。しかし、その時、画面がパッと明るく光り、ブーッという短い振動音がリビングの静寂を鋭く破った。
通知が来たのだ。メッセージアプリ「MINE」からの通知。
画面はすぐに暗くなる設定にはなっておらず、ポップアップされたメッセージのプレビューが数秒間だけ表示されていた。悠真は、意図して覗き見ようとしたわけではなかった。ただ、音に反応して視線がそこに向いてしまっただけだ。
『ケン:今日は体調大丈夫? 無理しないでね。次はいつ会えるかな』
血の気が引く音が、自分自身の耳にハッキリと聞こえた気がした。背筋に冷たい氷を押し当てられたような悪寒が走る。
ケン。見知らぬ名前だった。いや、名前だけならただの男友達かもしれない。大学時代のサークルの同期か、以前勤めていた職場の元同僚か。だが、その文面から漂う、不自然なほどの親密さと気遣い。そして、「次はいつ会えるかな」という決定的な言葉。
(体調大丈夫?……妊娠のことを、この男は知っているのか?)
思考が急速に回転し始める。先ほどの、妊娠のタイミングに対する違和感。今日の美咲の、不自然なほど明るく多弁な態度。そして、このメッセージ。すべての点と点が、悠真の頭の中で最悪の線を描き出そうとしていた。
鼓動が早くなる。手が微かに震える。スマホを手に取り、ロックを解除して中を見たいという強烈な衝動に駆られた。だが、そんなことをすれば、もう元の平穏な生活には戻れなくなる。パンドラの箱を開けることになる。見なかったことにすれば、明日もまた、美咲の美味しい朝食を食べ、笑顔で見送られ、平和な日常が続くのだ。
「お待たせ、悠真。ちょっと化粧直ししちゃった。ごめんね、一人にしちゃって」
足音が近づき、リビングの扉が開いた。美咲が戻ってきたのだ。悠真は弾かれたように視線をスマホから外し、慌てて手元の湯呑みを掴んだ。喉の渇きを潤すふりをして、お茶を流し込む。
「お、おう。大丈夫か? まだ初期なんだろ。冷えるから、あまり無理はするなよ」
「うん、ありがとう。悠真も、あまり遅くまで起きてると体に障るよ。明日も仕事でしょ?」
美咲は自分の席に戻りながら、さりげない動作でテーブルの上のスマホを手に取った。そして、画面を確認することもなく、伏せるようにして自分のエプロンのポケットに滑り込ませた。そのあまりにも自然で、しかし確実に隠蔽を意図した動作が、悠真の心に決定的な楔を打ち込んだ。
彼女は、何かを隠している。隠し通そうと焦っている。
「そうだな。今日はもう、お風呂に入って寝ようと思う。明日の朝も早いし」
悠真は、自分が今どんな顔をして笑っているのか分からなかった。顔の筋肉が引き攣っているかもしれない。ただ、平静を装うことに必死だった。事なかれ主義の彼にとって、その場で妻を問い詰めるという選択肢はなかった。
「うん。お風呂、すぐ沸かすね。デザートに買っきんてくれたプリン、明日の朝一緒に食べよっか」
美咲は努めて明るい声で立ち上がり、浴室へと向かった。彼女の後ろ姿を見送りながら、悠真は深く、重い息を吐き出した。肺の中の空気をすべて絞り出すように。
信じたい。美咲を信じたい。あれはただの同級生か何かで、体調を気遣ってくれただけだ。妊娠も、間違いなく俺との子供だ。そう思おうとするたびに、脳裏に『ケン』という文字が焼き付いて離れない。そして、あの一瞬見せた、美咲の引きつったような笑顔。
静かなリビングで、壁掛け時計の秒針の音だけが響いている。チク、タク、チク、タク。それはまるで、二人の間に流れていた穏やかな時間が、取り返しのつかない方向へ狂い始めたことを告げるカウントダウンのようだった。
悠真は目を閉じ、暗闇の中で自分自身に問いかけた。
これからどうする? 見なかったことにして、この「偽りの幸せ」を享受し続けるか? それとも、真実を暴き、自分たちの家庭というメッキを剥がすか?
事なかれ主義で生きてきた男の心の中に、これまで感じたことのない、黒く淀んだ感情が静かに、しかし確実に広がり始めていた。妻の過剰なまでの明るい笑顔の裏に隠された「何か」を突き止めなければならない。いや、突き止めてやる。そんな強迫観念めいた予感が、悠真の理性を少しずつ、確実に蝕んでいった。