第3話 白鷺は舞い降りた
絶望の淵で迎えた月曜日の朝は、鉛のように重かった。昨夜は一睡もできず、泣き腫らした目で鏡の前に立つと、そこには酷い顔をした自分が映っていた。湊に謝らなければ。これは全部嘘だったんだと、本当は湊のことが大好きなんだと、伝えなければ。その一心で、重い身体を引きずるようにして学校へ向かった。
しかし、教室の扉を開けた瞬間、私は自分の考えがどれほど甘かったのかを思い知らされることになる。
「なあ、聞いたか? 二年三組の藍月と響木、別れたらしいぜ」
「え、まじで!? あんなに仲良かったのに?」
「響木の方が、炎堂に乗り換えたって噂だぞ。昨日、二人で映画行ってたって目撃情報もあるし」
「うわー、藍月くん可哀想……。あんなに優しそうなのに」
教室のあちこちから聞こえてくる囁き声。その全てが、私には鋭い針のように突き刺さった。噂は、私が想像していたよりもずっと早く、そして歪んだ形で広がっていた。私が湊を振って、炎堂に乗り換えた、薄情な女。それが、今の学校内での私の評価だった。
違う。乗り換えたわけじゃない。これは事故なんだ。そう叫びたかったけれど、周囲の好奇と非難が入り混じった視線に晒されて、私は何も言えなくなってしまった。
自分の席に着くと、隣の湊の席はまだ空席だった。いつもは私より早く来て、教室で本を読んでいるのに。まさか、ショックで休んでしまったんだろうか。その可能性に思い至り、私の胸はさらに締め付けられた。
予鈴が鳴る直前、がらりと教室のドアが開き、湊が入ってきた。その姿を見て、私は安堵と同時に、胸がずきりと痛むのを感じた。彼の顔は、いつもより少し青白く、目の下にはうっすらと隈ができていた。明らかに憔悴しきっている。でも、彼は私とは目を合わせようともせず、まっすぐに自分の席へと向かった。その背中が、拒絶の壁のように感じられた。
「湊……」
声をかけようとした、その時。
「よお、詩織! 昨日はサンキュな!」
最悪のタイミングで、あの男――炎堂隼人が、私の席に馴れ馴れしくやってきた。彼の能天気な大声に、クラス中の視線が一斉にこちらに集まる。湊の肩が、ぴくりと震えたのが見えた。
「ちょ、炎堂くん、声が大きい……!」
「え、なんでだよ? 俺ら、もう隠すような仲じゃねえだろ?」
炎堂は、私が湊から彼に乗り換えたという噂を、むしろ歓迎しているようだった。平凡な湊から、クラスの人気者である私を奪った。その事実が、彼の優越感を満たしているのが手に取るように分かる。
「そういうのじゃないから!」
私が必死に否定しようとしても、彼はニヤニヤと笑うだけだ。そして、彼はちらりと湊の方に視線を向けると、わざと聞こえるような声で言った。
「まあ、藍月には悪ぃけど、これは仕方ねえよな。詩織が選んだのは、俺なんだから」
その言葉が、とどめだった。周囲の生徒たちの「やっぱりそうなんだ」という納得の表情。そして、静かに俯いたまま、何の反応も示さない湊。完全に、外堀を埋められてしまった。炎堂という存在が、私が湊に近づくための道を、コンクリートで塗り固めていく。
ホームルームが終わり、一時間目の授業が始まっても、私は全く集中できなかった。どうすればいい? どうすれば、この誤解を解くことができる? 昼休みになったら、絶対に湊を捕まえて、ちゃんと話をしよう。そう心に決めた。
しかし、その決意も、またしても打ち砕かれることになる。
昼休み。私が弁当を持って湊の席に向かおうとした、その瞬間だった。教室の前のドアが、静かに開いた。そこに立っていたのは、昨日、湊が助けたばかりの、あの生徒会長――白鷺氷華だった。
彼女の登場に、またしても教室がざわめく。誰もが、高嶺の花である彼女が、こんな庶民のクラスに何の用だろうかと、遠巻きに見ている。彼女は、そんな視線を一切気にすることなく、まっすぐに、一直線に、湊の席へと向かった。
そして、こともなげに、こう言ったのだ。
「藍月湊くん。少し、いいかしら」
湊は驚いたように顔を上げた。私も、クラスの全員も、固唾を飲んでその光景を見守っていた。
「生徒会室まで、来てもらえますか。あなたに、話があります」
氷華の口調は、生徒会長としての命令のようでありながら、どこか個人的な響きを帯びていた。湊は一瞬戸惑ったようだったが、生徒会長からの呼び出しを断れるはずもなく、「……はい」と小さく頷いて席を立った。
二人が連れ立って教室を出ていく。その光景を、私はただ呆然と見送ることしかできなかった。なんで、白鷺さんが湊を? 生徒会の用事? いや、違う。彼女のあの目は、ただの用事がある人間の目ではなかった。獲物を狙う、狩人のような、静かで強い光を宿していた。
嫌な予感が、胸を掻きむしる。私は、いてもたってもいられず、弁当もそのままに、そっと教室を抜け出した。そして、二人の後を追って、生徒会室のドアの前までたどり着いた。
ドアには、幸いにもわずかな隙間があった。私は息を殺し、その隙間に耳を寄せる。中から聞こえてきたのは、氷華の凛とした、しかしどこか甘さを秘めた声だった。
*
生徒会長である白鷺氷華に呼び出され、俺は緊張しながら生徒会室の前に立っていた。一体、何の用だろうか。昨日の、脚立から落ちた件だろうか。だとしたら、お礼はもう言ってもらったはずだが。
「どうぞ、入って」
中から声がして、俺は恐る恐るドアを開けた。広々とした生徒会室には、彼女一人しかいなかった。氷華は、窓の外を眺めていたが、俺が入ってきたことに気づくと、ゆっくりとこちらに振り向いた。
「藍月湊くん」
凛とした声で名前を呼ばれ、俺は思わず背筋を伸ばした。彼女は静かに俺の前に立つと、一切の迷いを見せず、その美しい黒曜石のような瞳で、まっすぐに俺の目を見つめてきた。
そして、告げられた言葉は、俺の乏しい想像力を、遥かに超えるものだった。
「単刀直入に言います。私、あなたのことがずっと好きでした」
「…………はい?」
理解が、追いつかない。好き? 誰が? この、完璧超人の白鷺氷華が? 誰を? この、平凡で何の取り柄もない、俺を?
「……あの、何かの冗談、ですか?」
俺がかろうじて絞り出した言葉に、氷華は静かに首を横に振った。
「私は、あなたのような方が好きそうな冗談は言いません。本心です。そして、もう一つ」
彼女は一歩、俺に近づいた。ふわりと、清潔なシャンプーの香りが鼻腔をくすぐる。
「響木さんと、別れたそうですね」
その言葉に、俺の胸がずきりと痛んだ。昨日、詩織に告げられた残酷な言葉と、彼女の幸せを願って身を引いた自分の決断が、脳裏に蘇る。
「……はい。まあ……」
「そう。つまり、あなたは今、フリーということですね」
氷華は、まるで待ち望んだ事実を確認したかのように、小さく頷いた。そして、再び俺の目をまっすぐに見て、はっきりと宣言した。
「どうか、私と付き合っていただけませんか」
「えええええええ!?」
もう、混乱の極みだった。好きだと言われただけでもパニックなのに、今度は交際の申し込み。ありえない。絶対にありえない。
「む、無理です! 無理に決まってます! 俺、昨日詩織と別れたばっかりで、そんな気分には……それに、白鷺さんみたいなすごい人が、なんで俺なんか……」
慌てて断る俺に、しかし、氷華は少しも怯む様子を見せなかった。むしろ、その瞳には、さらに強い光が宿ったように見えた。
「関係ありません」
彼女は、きっぱりと言い切った。
「あなたが今フリーであるという事実。それが、私にとって最も重要で、喜ばしいことなのですから。それに……」
氷華はそこで言葉を切ると、少しだけ意地悪そうに、蠱惑的に微笑んだ。
「響木さん、あなたに嘘をつきましたよね?」
「え……?」
その言葉に、俺は完全に思考を停止させられた。なんで、彼女がそんなことを。
「彼女、炎堂くんのことなんて、これっぽっちも好きじゃありませんよ。ただ、あなたが他の女子生徒と仲良くしているのを見て、嫉妬しただけ。あなたを試すために、愚かな芝居を打ったに過ぎません」
氷華の言葉は、淡々と、しかし確信に満ちていた。彼女が、詩織の嘘を見抜いている。その事実に、俺は言葉を失った。じゃあ、詩織は……?
「彼女が本当に好きなのは、昔も今も、あなただったはずなのに。くだらない嫉妬心と独占欲で、自ら宝物を手放してしまった。……まあ」
氷華は、楽しそうに、くすりと笑った。
「そのおかげで、ようやく私にチャンスが巡ってきたわけですけど」
彼女の言葉が、頭の中でぐるぐると回る。詩織は、嘘をついていた? 俺を試すためだけに? あの涙も、苦渋の決断も、全部演技だったと?
いや、だとしても、だ。俺は、彼女の「本当に好きな人ができた」という言葉を信じ、彼女の幸せを願って身を引くと決めたんだ。今更、それが嘘だったと言われても……。
俺が混乱していると、氷華はそっと俺の手に自分の手を重ねてきた。驚くほど滑らかで、少し冷たいその感触に、俺の心臓が大きく跳ねる。
「藍月くん。過去はもういいんです。あなたは、響木さんによって解放された。これからは、私のことだけを見てください」
「で、でも……」
「返事は、急ぎません。でも、私の気持ちは本気だということだけは、覚えておいてくださいね」
そう言うと、彼女は俺の手を名残惜しそうに離した。
「さあ、お昼休みが終わってしまいます。教室に戻りましょう」
呆然とする俺を促し、氷華は先に立って生徒会室を出ていく。俺は、まるで夢でも見ていたかのような気分で、ふらふらと彼女の後に続いた。
その日から、白鷺氷華の猛烈なアプローチが始まった。
昼休みになれば、彼女は手作りの豪華な弁当を持って、当たり前のように俺のクラスに現れ、「藍月くん、一緒にいただきましょう」と俺の隣の席に座る。周囲の男子生徒からの嫉妬と羨望の視線が痛いが、彼女は全く気にする素振りも見せない。
「藍月くん、あーん」
「いや、自分で食べれるから!」
「遠慮なさらずに」
そんな攻防が、毎日繰り広げられた。
そして放課後。「生徒会の仕事が残っていますので、手伝ってください」と、半ば強引に俺を生徒会室に連れ込む。仕事といっても、大した内容ではない。書類の整理や備品のチェックなど、俺がいなくても問題ないようなことばかりだ。
「この資料、棚の上にしまいたいのですが、私では届かなくて」
そう言って、彼女は上目遣いで俺を見つめてくる。俺が資料を棚に上げると、「ありがとうございます、藍月くん。やっぱり頼りになりますね」と花が咲くように微笑む。そんな彼女の姿に、傷ついていたはずの心が、少しずつ癒されていくのを感じていた。
一方で、響木詩織は焦燥の色を濃くしていた。
私が湊に話しかけようとする、その瞬間を狙ったかのように、必ず氷華が現れるのだ。
「湊、あのね、昨日のことなんだけど……」
「あら、藍月くん。そろそろ生徒会室へ行く時間ですよ」
昼休みに声をかければ、弁当箱を持った氷華が割って入る。
「湊! 今日こそ話が……!」
「藍月くん、今日の放課後は図書室で調べ物をします。もちろん、あなたにも付き合ってもらいますから」
放課後、下駄箱で待ち伏せしても、いつの間にか背後にいた氷華に連れて行かれる。
彼女は、まるで鉄壁の城壁だった。私が湊に近づくための、あらゆるルートを完璧に塞いでくる。彼女の行動は、全て計算され尽くしているように思えた。私がいつ、どこで湊に接触しようとするのか、全てお見通しなのだ。
さらに悪いことに、炎堂が「俺らって付き合ってるんだよな?」という前提で、休み時間のたびに馴れ馴れしく私の席にやってくる。そのせいで、周囲からは「響木は炎堂とラブラブで、藍月にはもう未練がない」という認識が完全に定着してしまっていた。
違う、違うのに。私が本当に話したいのは、湊だけなのに。
日に日に、湊の隣にいる氷華の笑顔が自然になっていく。そして、湊もまた、最初は戸惑っていたものの、彼女の献身的なアプローチに、少しずつ心を開いていっているのが、見ていて分かった。
私の居場所が、奪われていく。
私がいるべきだったはずの場所が、別の誰かに塗り替えられていく。
このままでは、本当に湊が取られてしまう。
自ら蒔いた種だとは分かっていた。でも、このまま終わるわけにはいかない。
私は、最後の望みをかけて、決意を固めた。
どんな手を使っても、もう一度、湊と二人きりで話す機会を作る。そして、私の本当の気持ちを、今度こそ伝えるんだ。
焦燥と後悔に駆られながら、私はただ、そのチャンスだけを窺っていた。