第4話 遅すぎた涙と、取り返せない「ごめんね」
白鷺氷華という鉄壁の城壁。彼女の完璧なガードを前に、私は為す術もなく時間だけを浪費していた。湊の隣にいるのが当たり前のように振る舞う彼女と、そんな彼女に戸惑いながらも、少しずつ絆されているように見える湊。その光景を見るたびに、私の心は嫉妬と後悔で焼き尽くされそうになる。
このままじゃダメだ。本当に、湊が彼女のものになってしまう。
なんとかして、湊と二人きりにならなければ。氷華の監視網を潜り抜け、私の本心を伝える場所と時間を作らなければ。私の頭は、そのことだけでいっぱいだった。授業の内容も、友達との会話も、何も頭に入ってこない。
幸運が訪れたのは、あの日から一週間が経った金曜日の放課後だった。その日は、生徒会の定例会議と、各部活動の部長会議が重なっていた。生徒会長である氷華はもちろん、多くの生徒が会議のために拘束される。つまり、湊が一人になる可能性が、極めて高い。
「……チャンスは、今日しかない」
私は朝からずっと、その時を待っていた。昼休み、氷華がいつも通り湊を連れ出そうとした時も、「今日は午後から会議が立て込んでいるので、昼食は一人で済ませます」と言って、足早に去っていった。その時の、彼女の少しだけ残念そうな横顔と、湊のほっとしたような、それでいてどこか寂しそうな表情を、私は見逃さなかった。
好機だ。絶対に、このチャンスを逃すわけにはいかない。
放課後のチャイムが鳴り響く。私は、心臓が飛び出しそうになるのを抑えながら、帰り支度をする湊の様子を窺っていた。彼は一人で、ゆっくりと荷物を鞄に詰めている。周りの生徒たちが部活や遊びへと散っていく中、彼だけがぽつんと取り残されているように見えた。
よし、今だ。
私は席を立ち、彼の元へ向かおうとした。しかし、その瞬間、湊は誰に言うでもなく小さくため息をつくと、ふらりと教室を出て行ってしまった。行き先は、下駄箱とは逆の方向。階段を上っていくその後ろ姿が見えた。
「屋上……?」
私たちの高校の屋上は、普段は施錠されている。しかし、文化祭や体育祭の準備期間中は、例外的に開放されることがあった。おそらく、彼は喧騒から逃れて、一人で静かに過ごしたかったのだろう。
追いかけなければ。
私は逸る気持ちを抑え、少しだけ時間を置いてから、彼の後を追った。心臓がうるさいくらいに鳴っている。階段を一段一段上るたびに、湊に何を話せばいいのか、頭の中で必死に言葉を探した。
ごめんなさい、から始めよう。そして、あれは全部嘘だったと。湊のことが好きすぎて、不安になって、馬鹿なことをしてしまったんだと。正直に、全てを話そう。そうすれば、優しい彼ならきっと、分かってくれるはずだ。怒るかもしれないけど、最後にはきっと許してくれる。そして、また、あの頃のように……。
そんな希望的観測を胸に、私は屋上へと続く最後の扉を、ゆっくりと開けた。
夕暮れ前の、少しだけ傾き始めた太陽の光が、目に眩しい。フェンスの前に一人、藍月湊は立っていた。街並みをぼんやりと眺めるその背中は、ひどく寂しげで、頼りなく見えた。
「……湊」
私の声に、彼の肩がびくりと震えた。ゆっくりとこちらに振り向いたその顔は、驚きと、困惑と、そしてほんの少しの諦めが混じり合ったような、複雑な色をしていた。
「詩織……。なんで、ここに」
「追いかけてきたの。ずっと、湊と話がしたかったから」
私は一歩、また一歩と、彼に近づいていく。もう、誰も私たちの間にはいない。氷華も、炎堂も、クラスメイトたちの好奇の視線も。ここには、私と湊の二人だけだ。
「話って……もう、話すことなんて、何もないはずだろ」
彼の声は、硬かった。明確な拒絶の色が滲んでいる。でも、私はここで引き下がるわけにはいかなかった。
「ある! あるの! 聞いて、お願いだから!」
私は彼の数歩手前で立ち止まり、堰を切ったように言葉を紡ぎ始めた。もう、駆け引きも、計算もいらない。ただ、ありのままの気持ちをぶつけるしかなかった。
「あのね、この間の話、全部嘘なの! 本当に好きな人なんて、どこにもいない! 炎堂くんとは、ただ映画を見に行っただけで、何でもないの!」
涙が、勝手に溢れてくる。視界が滲んで、彼の顔がよく見えない。でも、構わなかった。
「湊が、文化祭の準備で、他の子たちに優しくしてるのを見て……白鷺さんを助けたりしてるのを見て、すごく、不安になっちゃって……。湊が、私の知らないところに行っちゃう気がして、怖くなって……!」
嗚咽が混じり、言葉が途切れ途切れになる。それでも、私は必死に続けた。
「だから、嫉妬してほしかったの! 湊に、やきもちを焼いてほしくて……私がいないとダメなんだって、思い知らせたくて……! あんな、ひどい嘘をついちゃったの! 本当にごめんなさい!」
私は泣きじゃくりながら、心の底からの謝罪を口にした。言えた。やっと、本当のことが言えた。これで、彼も分かってくれるはずだ。私がどれだけ彼のことを好きで、どれだけ後悔しているかを。そして、「しょうがないな」って、困ったように笑って、また私の頭を撫でてくれるはずだ。
私は、彼の言葉を待った。許しの言葉を、待った。
しかし、長い沈黙の後に返ってきたのは、あまりにも残酷な、そして絶望的な響きを持つ言葉だった。
「……詩織」
静かに名前を呼ばれ、私は顔を上げた。
湊は、泣いていなかった。怒ってもいなかった。ただ、深い、深い悲しみを湛えた瞳で、まっすぐに私を見つめていた。その顔には、諦観の色が、濃く張り付いていた。
「もう、君の言葉を信じることができないよ」
「え……?」
頭を、鈍器で殴られたような衝撃。理解が、できなかった。何を、言われた?
「だって、おかしいだろ」
湊は、静かに、淡々と続けた。その声には、一切の感情が乗っていないように聞こえた。
「君は俺に、『本当に好きな人ができた』って言った。あの時の君の目は、すごく真剣だった。俺は、嘘だなんて少しも思わなかった。だから、本気で君の幸せを願おうって、その人のことを応援しようって、決めたんだ」
彼の言葉一つ一つが、鋭い氷の矢となって、私の胸に突き刺さる。
「それなのに、今になって『全部嘘だった』なんて言われても……。ごめんな。俺には、それが……」
湊は一度、言葉を切った。そして、まるで自分自身に言い聞かせるように、呟いた。
「それが、復縁するために君がついてる、新しい嘘にしか聞こえないんだ」
嘘……。
新しい、嘘……。
その言葉の意味を理解した瞬間、私の全身から血の気が引いていくのが分かった。
違う。そうじゃない。彼は、完全に、致命的に、誤解している。
湊の極端な自己評価の低さが、最悪の解釈を生み出していたのだ。
彼は、私が本当に炎堂を好きになったのだと信じ込んでいる。そして、その炎堂と何かうまくいかなくなり、保険であり、都合のいい存在であった「元カレ」の自分のもとに、戻ろうとしている。そのために、「あれは嘘だった」という、新たな嘘をついているのだと。
彼は、私のことを、そんな風にしか見ることができなくなってしまっていた。
「ちが……違う、湊! 本当に、信じて! 私は、そんな……!」
「もういいんだ、詩織」
彼は、私の言葉を遮るように、静かに首を横に振った。
「君が誰を好きになろうと、それは君の自由だ。俺がとやかく言う権利はない。でも、俺を巻き込むのだけは、もうやめてくれ。俺はもう……疲れたんだ」
疲れた。
その一言が、私の心を完全に粉砕した。彼の優しさに甘え、彼の心を試すような愚かな真似をした結果が、これだった。私は、世界で一番大切だったはずの人を、心底疲れさせて、傷つけてしまったのだ。
「ごめん、詩織。もう、俺たちは元には戻れない」
それは、死刑宣告にも等しい言葉だった。
目の前が、真っ暗になる。足が震え、立っていることさえできなくなりそうだった。どうしよう。何を言えば、信じてもらえる? どうすれば、この絶望的な誤解を解くことができる?
私が言葉を失い、ただ立ち尽くしていると、その時。
カチャリ、と屋上のドアが開く音がした。
そこに立っていたのは、私が今、最も会いたくない人物だった。
夕日を背に浴びて、神々しいまでに美しく輝く、白鷺氷華。
「藍月くん。こんな所にいたんですか。探しましたよ」
彼女は、まるで私の存在など目に入っていないかのように、まっすぐに湊だけを見つめていた。その声は、甘く、そして有無を言わせない力強さに満ちていた。
「白鷺さん……。会議は、終わったのか?」
「ええ。あなたを探すために、少し早めに切り上げてきました」
氷華は優雅な足取りで湊の隣まで歩み寄ると、私たちの間に流れる重苦しい空気を断ち切るように、はっきりと言った。
「さあ、行きましょう。過去に囚われている時間はありませんよ」
その言葉は、明らかに私に対する当てつけだった。あなたは過去。私は現在、そして未来。そう言われているようだった。
そして、氷華は、ごく自然な仕草で、すっと湊の手に自分の手を伸ばした。
「え……」
湊の身体が、一瞬こわばった。彼は、戸惑うように、氷華の手と、そして私の顔を交互に見た。
今だ。今、何かを言わなければ。引き留めなければ。
でも、私の喉からは、何の音も出てこなかった。彼の「信じられない」という言葉が、鉛のように私の身体をその場に縫い付けていた。
湊は、数秒間ためらった。
しかし、まっすぐに自分だけを見つめてくる氷華の、真摯で力強い瞳と、その手の温もりに、何かを決心したように見えた。凍てついていた彼の心が、その熱によって少しずつ溶かされていくのが、離れていても分かった。
彼は、おそるおそる、しかし確かに、氷華の手を……握り返した。
その光景を見た瞬間、私の世界から、完全に音が消えた。
「行きましょう、湊くん」
氷華は、名前の呼び方まで変えて、花が咲くように微笑んだ。そして、湊の手を引いて、私の前を通り過ぎていく。
すれ違いざま、氷華が私の耳元で、囁いた。誰にも聞こえない、悪魔のように甘い声で。
「――ありがとう、響木さん。あなたが彼を手放してくれたおかげです」
それは、完全な勝利宣言だった。
二人で手を取り合って去っていく後ろ姿。夕日に照らされたその光景は、まるで一枚の絵画のように美しく、そして残酷だった。
もう、私の入る隙間は、どこにもない。
あの二人の間に、私の居場所は、一ミリたりとも残されていない。
屋上のドアが、パタン、と無情な音を立てて閉まる。
世界に、また独り、取り残された。
自分の愚かな嘘と、浅はかな嫉妬が、かけがえのない宝物を、永遠に、完璧に、奪い去ってしまった。その事実を、骨の髄まで思い知らされた。
「あ……ああ……あああああああああっ!」
膝から崩れ落ち、私はコンクリートの上に突っ伏した。
もう、取り返しがつかない。
もう、二度と、あの頃には戻れない。
「ごめ……んなさい……っ! みなと……っ!」
誰に届くでもない謝罪の言葉と、遅すぎた後悔の涙が、夕暮れの屋上に虚しく、ただ虚しく響き渡っていた。