「刺激が欲しい」と浮気した幼馴染の彼女。「君は重くて退屈」と捨てられた俺は、ゼミの才女に拾われ幸せを掴む 〜今さら「やり直したい」と泣きつかれても、もう手遅れです〜

第4話 幻滅と代償

六月の蒸し暑さが、キャンパスの緑を濃く染め上げていた。梅雨の晴れ間、湿気を含んだ風が肌にまとわりつく。かつてなら、この時期特有の不快指数にため息をついていただろう。けれど今の俺にとって、この湿気さえも「生きている」実感の一部のように感じられた。

図書館の静寂な空気の中、ページをめくる音だけが響く。俺の目の前には、ゼミの課題に必要な専門書が積み上げられていた。その向かい側で、松下凛がノートパソコンに向かい、小気味よいタイピング音を響かせている。

「佐藤くん、そこの資料、読み終わった?」

ふいに凛が顔を上げ、少し眼鏡の位置を直しながら尋ねてきた。彼女のこの仕草を、俺は最近よく目にするようになった。仕事モードの彼女が見せる、無意識の癖だ。

「うん、あらかたね。この統計データ、前回の仮説と少し食い違ってる気がするんだけど」
「どれ? ……ああ、なるほど。確かにサンプル数が違うわね。でも、傾向としては補強材料になりそうよ」

彼女は俺が指差した箇所を覗き込み、的確な意見を返してくれる。その距離が自然に近いことに、以前ほど動揺しなくなっている自分に気づく。愛と付き合っていた頃は、他の女性とこんなに近くで話すことなんてなかった。無意識に壁を作っていたし、愛に誤解されたくないという防衛本能が働いていたからだ。

だが今は違う。凛との時間は、心地よい「対話」で満たされている。彼女は俺の意見を否定せず、かといって盲目的に肯定するわけでもない。一度受け止めた上で、より良い方向へ導いてくれる。

「ありがとう、松下さん。助かったよ」
「お礼を言うのは私の方よ。佐藤くんがまとめてくれたこの表、すごく見やすいわ。これなら教授も文句言わないはず」

凛がふわりと微笑んだ。その笑顔を見ると、胸の奥が温かくなる。かつての愛に向けたような、燃え上がるような情熱とは違う。もっと静かで、深いところから湧き上がってくるような安らぎに近い感情。それが何なのか、俺はまだ名前を付けられずにいた。

「少し休憩しない? コーヒーでも飲みたい気分だわ」
「賛成。煮詰まってたところだし」

俺たちは席を立ち、図書館の自販機コーナーへと向かった。紙コップのコーヒーを買い、窓際のベンチに並んで座る。窓の外では、学生たちが夏の訪れを予感させるような軽装で歩いていた。

「最近、顔色が良くなったわね」

コーヒーを一口啜りながら、凛が言った。

「そうかな? 自分じゃよく分からないけど」
「ええ。前みたいに、何かに怯えているような目がなくなった。ちゃんと自分の足で立ってる感じがする」

彼女の言葉は、いつも俺の核心を突く。確かに、あの雨の日に彼女が部屋に来てくれてから、俺の中で何かが変わった。愛に否定された「真面目さ」や「重さ」を、彼女が肯定してくれたおかげだ。俺は俺のままでいい。そう思えるようになったことが、何よりの回復薬だったのかもしれない。

「松下さんのおかげだよ。あの時、来てくれなかったら、俺はずっと部屋に引きこもっていたと思う」
「私はきっかけを作っただけ。立ち上がったのは佐藤くん自身の力よ」

彼女は謙遜するように視線を逸らしたが、その耳が少し赤くなっているのが見えた。普段はクールな彼女の、意外な可愛らしさ。それを見つけるたびに、俺の心は小さく跳ねる。

日常が戻ってきていた。愛のいない、けれど決して不幸ではない日常が。

一方その頃、街の反対側では、俺の知らない時間が流れていたことを、後になって知ることになる。

***

「ねえ、聞いてる?」

愛はグラスを爪で弾きながら、目の前の男に問いかけた。薄暗いバーの照明が、クリスタルガラスを妖艶に輝かせている。カウンターの隣に座っているのは、加藤だ。彼はスマホの画面をスクロールすることに夢中で、愛の方を見ようともしない。

「ああ、聞いてるよ。バイトがだるいって話だろ?」

加藤は気のない返事をして、葉巻の煙を吐き出した。その煙が愛の顔にかかり、彼女は小さく咳き込んだ。健太なら、絶対にこんなことはしない。タバコが苦手な愛のために、吸う時は必ず席を外していたし、煙が流れないように風下に立ってくれた。

「違うよ。店長が嫌味な奴だって話。健太だったら、すぐに『大丈夫?』って心配してくれたのに」

口に出してから、しまったと思った。加藤の前で健太の名前を出すのはタブーだ。以前、それで機嫌を損ねられたことがある。

案の定、加藤の手が止まった。彼はゆっくりとスマホを置き、冷ややかな視線を愛に向けた。

「またかよ。お前さ、最近そればっかだな。健太、健太って。そんなに元カレがいいなら、戻れば?」
「そ、そんなんじゃないよ! ただ、ちょっと愚痴りたかっただけで……」

愛は慌てて否定した。加藤の機嫌を損ねたくない。彼に嫌われたら、今の自分には何も残らないという恐怖が常に付きまとっていた。

「刺激が欲しいって言って俺のとこに来たのはお前だろ? なのに、いざ付き合ってみたら、普通の彼氏みたいなこと求めやがって。重いんだよ」

重い。
その言葉は、かつて愛が健太に投げつけたものだった。それが今、ブーメランのように自分に返ってきている。皮肉な因果に、愛は唇を噛み締めた。

「ごめん……。加藤くんが忙しいのは分かってる。でも、私、もっと一緒にいたいし、話も聞いてほしいの」
「だから、それが面倒くさいって言ってんの」

加藤は呆れたように吐き捨て、グラスの中のウイスキーを一気に飲み干した。

「俺はさ、楽しいことだけしたいわけ。お前のその、じめっとした依存体質みたいなの、正直冷めるわ」
「依存なんてしてない!」
「してるだろ。俺の予定ばっかり気にして、LINEの返事が遅いとすぐ追いメッセージしてくるし。お前、自分のこと『自由奔放な女』だと思ってるかもしれないけど、中身はただの『かまってちゃん』だよ」

加藤の言葉は容赦がなかった。愛が必死に取り繕ってきたプライドを、土足で踏み荒らしていく。

「健太は……健太は、そんなこと言わなかった」

涙が滲んできた。比較したくなくても、どうしても健太の優しさが脳裏をよぎる。どんなに忙しくても連絡をくれた。愚痴を言えば、最後まで嫌な顔ひとつせず聞いてくれた。「愛が頑張ってるの、俺は知ってるよ」と、頭を撫でてくれた。あれが、どれほど恵まれた環境だったのか。失って初めて、その価値に気づき始めていた。

「なら、そいつのとこ帰れよ。……あ、無理か。お前が振ったんだもんな」

加藤は意地悪く笑った。その笑顔には、愛に対する愛情のかけらも感じられなかった。彼は愛を「彼女」としてではなく、単なる「遊び相手」、あるいは「トロフィー」としてしか見ていないのだ。健太から奪った女、という優越感に浸るための道具。

「もういいよ」

加藤は伝票を手に取り、立ち上がった。

「え? 帰るの? まだ一時間も経ってないのに」
「俺は帰る。お前は勝手にしろ」
「待ってよ! 私も行く!」

愛は慌ててバッグを掴み、彼を追いかけようとした。しかし、加藤は冷たく言い放った。

「ついてくんな。今日は他の子と約束あんだよ」
「は……?」

思考が停止した。他の子? 約束?

「ど、どういうこと? 私と付き合ってるんじゃないの?」
「付き合う? 誰が? 俺、お前に『付き合おう』なんて一言も言ってねえけど」

加藤は心底不思議そうな顔をした。

「え……でも、毎日会ってたし、あんなこともしたし……」
「それはお前が誘ってきたからだろ? 俺は来るもの拒まずなだけ。勘違いすんなよ」

世界が回転した。足元の床が抜け落ちていくような感覚。愛は自分が何を言われているのか理解できなかった。いや、理解したくなかった。

「嘘……でしょ? 冗談だよね?」
「うぜえな。マジだから。お前みたいな都合のいい女、他にも山ほどいるんだわ。飽きたから、もう連絡してくんな」

加藤はそう言い捨て、愛を残してバーを出て行った。重い木の扉が閉まる音が、愛の心に死刑宣告のように響いた。

残されたのは、煌びやかなバーの喧騒と、惨めな自分だけ。周囲の客たちが好奇の目でこちらを見ているような気がして、愛は身を縮こまらせた。

「嘘つき……」

加藤は嘘つきだ。甘い言葉を囁き、特別扱いするような素振りを見せていたのに。でも、自分も同じだった。健太に嘘をつき、裏切り、傷つけた。これは罰なのだろうか。

店を出ると、外は雨が降り始めていた。傘を持っていない愛は、濡れるに任せて歩き出した。加藤の車はもうない。タクシーを拾う金も惜しい。何より、どこへ帰ればいいのか分からなかった。一人暮らしのアパートに帰っても、待っているのは冷たい闇だけだ。

雨が容赦なく降り注ぐ。淡いブルーのワンピースが肌に張り付き、身体の芯まで冷え切っていく。

「寒い……」

震える手でスマホを取り出した。画面の光だけが、今の愛にとっての唯一の温もりだった。
誰かに助けてほしい。誰でもいい。温かい言葉をかけてくれる人が欲しい。

無意識のうちに、指が連絡先リストをスクロールしていた。
『健太』
その名前を見つけた瞬間、涙が溢れ出した。

健太なら、許してくれるかもしれない。あんなに優しかった彼なら、私が泣いて謝れば、きっとまた抱きしめてくれるはず。彼は私を愛していたのだから。五年間の絆は、そう簡単に消えるはずがない。

これは甘えだ。最低な行為だ。分かっている。
けれど、今の愛にはプライドも羞恥心も残っていなかった。孤独という怪物が、彼女の理性を食い尽くしていたのだ。

『健太、助けて。寂しいの。会いたい』

送信ボタンを押す。
「既読」がつくのを待ちながら、愛は雨の中、画面を見つめ続けた。

***

スマホが短く震えたのは、凛と駅へ向かう途中だった。

「ん? 誰かから?」

隣を歩く凛が、さりげなく尋ねてくる。俺はポケットからスマホを取り出し、画面を確認した。

通知画面に表示された名前を見て、俺の足が止まった。
『高橋 愛』。
そして、ポップアップされたメッセージの冒頭。『助けて。寂しいの……』

心臓がドクンと大きく跳ねた。
愛からの連絡。あれ以来、初めてだ。
「助けて」という言葉。何か事件に巻き込まれたのか? それとも、ただの気まぐれか? かつての俺なら、前後の見境なく彼女の元へ駆けつけていただろう。雨の中だろうが深夜だろうが、愛が呼んでいるなら行くのが当たり前だった。

「……佐藤くん?」

凛の声で我に返る。彼女は俺の表情を見て、何かを察したようだった。

「彼女から?」
「……うん」

隠しても仕方がない。俺は正直に頷いた。

「何かあったみたいだ。『助けて』って」

凛は静かに俺を見つめた。その瞳には、動揺も嫉妬もない。ただ、俺の決断を待つような、静謐な光が宿っていた。

「行くの?」

その問いかけは、試すような響きを含んでいた。ここで行くと言えば、彼女は止めないだろう。だが、それは同時に、俺が過去に引き戻されることを意味していた。凛との間に芽生え始めた信頼関係を、自ら手放すことになるかもしれない。

俺はスマホの画面を見つめた。
雨に打たれているであろう愛の姿が想像できる。彼女は今、弱っている。加藤とうまくいっていないのかもしれない。だから俺に連絡してきたのだ。都合よく、自分が傷ついた時だけ頼れる避難所として。

「……いや」

俺は呟いた。

「行かない」
「いいの?」
「うん。俺が行っても、何も解決しない。それに……」

俺は顔を上げ、凛の方を見た。

「俺は今、松下さんと一緒に帰りたいんだ」

それは、自分でも驚くほど素直な言葉だった。過去の亡霊にすがるよりも、今、隣にいてくれる人を大切にしたい。愛への未練が完全に消えたわけではない。心配な気持ちもゼロではない。けれど、それ以上に、俺はこの「前へ進む」という感覚を手放したくなかった。

「そう」

凛は短く答え、ふわりと微笑んだ。その笑顔は、今まで見た中で一番柔らかく、そして美しかった。

「じゃあ、行きましょうか。美味しいケーキ屋さん、駅の向こうにあるの知ってる?」
「へえ、松下さんも甘いもの食べるんだ」
「意外? 私だって疲れた時は糖分補給くらいするわよ」
「じゃあ、俺が奢るよ。今日のゼミのお礼に」
「ふふ、期待してるわ」

俺たちは再び歩き出した。
スマホをポケットの奥深くにしまう。愛からのメッセージには返信しなかった。既読をつけることさえ躊躇われた。それは冷酷なことかもしれない。けれど、これが俺なりの「ケジメ」だ。

愛は俺の優しさを「退屈」だと言った。その選択をしたのは彼女自身だ。その結果、孤独を感じているとしても、それは彼女が自分で引き受けなければならない代償なのだ。俺が助け舟を出せば、彼女はまた「甘え」を学習し、同じ過ちを繰り返すだろう。そして俺も、一生彼女の影に縛られ続けることになる。

さようなら、愛。
俺は心の中でそう呟いた。

駅前の喧騒が近づいてくる。街の明かりが、雨上がりの水たまりに反射してきらきらと輝いていた。隣を歩く凛の横顔が、その光を受けて輝いて見える。

「あ、見て佐藤くん。虹」

凛が空を指差した。
ビルの合間から、薄っすらと七色のアーチがかかっているのが見えた。

「本当だ……久しぶりに見たな」
「雨が降ったからこそ、見える景色ね」
「……そうだね」

雨降って地固まる、とはよく言ったものだ。俺の心に降った土砂降りの雨も、いつかこうして美しい景色を見せるための準備だったのかもしれない。

「綺麗だね」
「ええ、とても」

俺たちはしばらくその場に立ち止まり、消え入りそうな虹を見上げていた。
愛からの通知は、もう気にならなかった。
俺の明日は、きっとこの虹の向こう側にある。そしてその隣には、この聡明で優しい女性がいてくれる予感がしていた。

ポケットの中で、スマホがもう一度震えた気がした。だが、俺はもう取り出さなかった。
過去からの呼び声は、今の俺にはもう届かない。俺の足は、しっかりと未来へ向けて踏み出されていたのだから。