君の記憶を「最低」に上書き保存 〜浮気した彼女と間男を、脳内に刻まれた思い出ごとハックして絶望の底に叩き落とす〜

第6話 サイドストーリー:愛した記憶を全て偽物に書き換えられ、私の人生は絶望にフォーマットされた

私の世界は、音を立てて崩れた。

夕暮れの大学キャンパス。アスファルトの冷たい感触が、頬に伝わってくる。遠ざかっていく、かつて愛した人の背中。彼の最後の言葉が、脳内で何度も、何度も、壊れたレコードのように繰り返される。

『君の人生が、根底から嘘だったと知った気分はどうだい?』

嘘。嘘だった。私の才能も、私の努力も、私の最も輝かしい思い出も、全て。奏が、私のために仕組んだ、壮大な茶番劇だった。

「あ……ああ……うわあああああああ!」

喉から、獣のような叫び声が漏れた。涙なのか、鼻水なのか、よだれなのか、もはや分からない液体が顔中を濡らしていく。みっともない。恥ずかしい。でも、そんなことを気にする余裕など、どこにもなかった。私の人生は、もう、終わってしまったのだから。

どうして、こんなことになったんだろう。

奏と出会って六年。彼は、いつも優しかった。穏やかで、知的で、私の作る少し味の濃い料理も「美味しいよ」と言って残さず食べてくれた。私の夢を、誰よりも応援してくれた。脳科学なんていう難しい研究に没頭する彼を、私は心から尊敬していた。

この穏やかな幸せが、永遠に続くのだと信じていた。来年には結婚して、子どもが生まれて、奏の作るビーフシチューを家族みんなで囲む。そんな未来を、疑いもしなかった。

その「当たり前の幸せ」が、いつからか「退屈」に感じられるようになってしまったのは、一体いつからだっただろう。

きっかけは、皇玲央さんとの出会いだった。

クライアントとして現れた彼は、奏とは何もかもが正反対の人だった。自信に満ち溢れ、私のデザイナーとしての才能を「君はもっと評価されるべきだ」と絶賛してくれた。私を高級なレストランに連れて行き、スマートにエスコートし、私が知らない世界の景色をたくさん見せてくれた。

「奏くんは、君をこういう場所に連れてきてくれないのかい?」

玲央さんにそう言われた時、私は少しだけ、奏に対して不満を覚えた。奏は優しい。でも、玲央さんのように、私を特別な「お姫様」として扱ってはくれない。奏の揺るぎない優しさは、まるで空気のようだった。そこにあって当たり前で、感謝を忘れてしまうもの。

私は、刺激が欲しかった。自分の価値を、もっと分かりやすい形で認めてほしかった。玲央さんは、その全てを与えてくれた。彼に抱きしめられるたびに、私は自分が世界で一番特別な女になれたような気がした。

奏を裏切っている罪悪感がなかったわけじゃない。でも、「これはただの火遊び」「奏の退屈さを埋めるための、ちょっとしたスパイス」だと、私は自分に言い聞かせていた。奏の優しさに甘え、玲央さんの刺激に酔う。私は、その二つを都合よく手に入れている、ずる賢い女だった。

そんな歪なバランスが崩れたのは、玲央さんが突然、失脚したと聞いた時だった。あれだけ自信に満ちていた彼が、精神を病んでしまったらしい。輝く王子様だと思っていた男の、あまりにも呆気ない凋落。その時、私は急に怖くなった。そして、改めて気づいたのだ。嵐の中でも決して揺らぐことのない、奏という港の存在の大きさに。

「やっぱり、私には奏しかいない」

私は、自分の過ちを清算するように、奏に甘えた。奏は、何もかもを受け入れてくれるように、優しく微笑んでくれた。その笑顔に、私は心の底から安堵した。

そして、あの週末。

「久しぶりに、二人の思い出の場所に行かないか?」

奏のその提案を、私は神様からのプレゼントのように感じた。そうだ、あの場所に行けば、全てをリセットできる。私たちの最も輝かしい思い出の場所で、もう一度、私たちはやり直せるんだ。

夕暮れのギャラリー。ガラスケースの中で輝く、私のグランプリ作品。私の才能の証明。そして、奏との愛の結晶。

その思い出が、彼の口から紡がれた言葉によって、一瞬にして醜悪な偽物に成り果てた。

『あの時の審査員の一人、僕の叔父さんだったんだ』

その言葉と共に、私の脳裏に、ありもしない光景が、まるで実際に体験したかのように流れ込んできた。奏が電話で誰かに不正を頼み込む声。他の参加者の、私よりも遥かに優れた作品。そして、パーティー会場で、私を憐れむようにひそひそと囁き合う人々の声。

「嘘……」

否定しようとしても、脳がそれを許さない。偽りの記憶は、あまりにも鮮明で、あまりにもリアルだった。私の才能も、努力も、全ては奏が用意した偽りの舞台の上での、空虚な一人芝居だったのだ。

そして、私が誰よりも喜びを分かち合ったと信じていた、奏のあの涙。あれも、嘘だった。才能のない私を不正に勝たせてしまったことへの、罪悪感の涙だった。愛されていると思っていた。誰よりも私の価値を信じてくれていると思っていた。その全てが、私の勘違いだった。

「……ああ……ああああ……」

絶望が、私の全身を支配する。プライドも、過去も、愛された記憶も、全てを奪われた。私は、空っぽの人間になってしまった。

そして、奏が放った最後の言葉が、私にとどめを刺した。彼が、玲央さんの失脚にも関わっていたこと。私の浮気の全てを知った上で、この残酷な復讐劇を、たった一人で計画し、実行していたこと。

私が「退屈」だと思っていたあの穏やかな青年は、人の精神を内側から、跡形もなく破壊できる、冷徹な怪物だった。

私は、どれだけの間、アスファルトの上で泣き続けていただろうか。気づいた時には、辺りはすっかり暗くなり、私を照らすのは冷たい街灯の光だけだった。

ふらふらと、ゾンビのようにマンションに帰り着く。部屋の明かりは消えていた。いつもなら「おかえり」と迎えてくれるはずの彼の姿は、どこにもない。

彼の私物は、綺麗さっぱり消えていた。まるで、最初からそこに誰もいなかったかのように。テーブルの上に、鍵が一つ、無機質に置かれているだけ。それが、私たちの六年間に対する、彼からの最後の答えだった。

あれから、どれくらいの時が経っただろう。

私は会社を辞めた。もう、デザインをすることはできない。パソコンを開くたびに、自分の才能が偽物だったという事実が、幻聴となって脳裏に響き渡るからだ。

外に出ることもできない。街を歩く人々の視線が、皆、私を「不正をした女」「才能のない女」だと嘲笑っているように感じるからだ。

部屋に引きこもり、ただ、ぼんやりと天井を眺めて過ごす毎日。食事も喉を通らず、体重は見る影もなく落ちた。鏡に映るのは、生気の失せた、骸骨のような女。これが、私。これが、奏の復讐の、完成形。

時々、無性に奏に会いたくなる。そして、謝りたい。ごめんなさい、私が馬鹿だった、と。でも、分かっている。もう遅いのだ。彼の電話番号は、もうどこにも繋がらない。

彼は今、どこで、何をしているのだろう。また誰かの隣で、あの穏やかな笑顔を浮かべているのだろうか。そして、その笑顔の裏で、次なる復讐の計画を練っているのだろうか。

それとも、誰かの「辛い記憶」を、その不思議な力で優しく編集してあげているのだろうか。

もし、できることなら、私も彼に依頼したい。

「お願いします。私のこの『絶望の記憶』を、消してください」と。

だが、それも叶わない願いだ。彼は、私を救ってはくれない。私をこの記憶の牢獄に閉じ込めたのは、他の誰でもない、彼自身なのだから。

私は、この偽りの過去と、本物の絶望を抱えたまま、生きていくしかない。奏が、私の人生に施した「上書き保存」。そのデータは、もう二度と、元に戻ることはないのだ。

窓の外は、今日も夕暮れ。あの日のキャンパスと同じ、美しい茜色。その美しさが、私の心を、ただただ、抉っていく。