君の記憶を「最低」に上書き保存 〜浮気した彼女と間男を、脳内に刻まれた思い出ごとハックして絶望の底に叩き落とす〜

第5話 サイドストーリー:エリートだった俺の人生が、一本のVRでシステムクラッシュした件

埃っぽい、薄暗い部屋。遮光カーテンの隙間から漏れる一筋の光が、床に散らばるワインの空き瓶を鈍く照らしている。いつから掃除をしていないだろうか。いつから太陽の光をまともに浴びていないだろうか。もはや、そんな感覚さえ麻痺していた。

俺、皇玲央(すめらぎれお)は、ベッドの上で死んだように横たわり、意味もなく天井の染みを眺めている。かつて、一分一秒を惜しんで世界を飛び回り、数億のプロジェクトを動かしていた男の成れの果てが、この無様な姿だ。

「……盗作野郎……」

不意に、幻聴が脳裏をよぎる。嘲笑う声、侮蔑の視線。俺はびくりと身を震わせ、毛布を頭まで引き被った。違う、俺はやっていない。あれは俺のオリジナルの理論だった。輝かしい、完璧なプレゼンテーションだったはずだ。それなのに、なぜ。

なぜ、俺の人生はこんなことになってしまったんだ?

全ての始まりは、些細な出来事だった。いや、当時の俺にとっては、日常を彩るスパイスの一つくらいの、取るに足らない出来事だったはずだ。

クライアントのオフィスで、月詠栞(つきよみしおり)というウェブデザイナーに出会った。少し野暮ったさは残るが、素直で、愛嬌のある女だった。俺がプロジェクトの方向性について少しアドバイスをすると、彼女は「すごい……! 玲央さんの視点は、私たちとは全然違うんですね!」と、子犬のように目を輝かせて俺を見上げた。

その憧憬に満ちた眼差しが、心地よかった。俺の価値を正しく理解できる、賢い女だと思った。彼女に恋人がいることは、すぐに分かった。だが、そんなことは何の問題にもならなかった。俺が欲しいと思ったものを、手に入れられなかったことなど一度もないのだから。

「奏は、優しいんですけど……」

高級ホテルのラウンジで、栞は恋人の話をした。「かなで」という、女みたいな名前の男。研究に没頭しているとかで、世間には疎いらしい。栞は、その男を評して「安心はするけど、退屈」だと言った。

俺は心の中で、その「かなで」という男を嘲笑った。女一人、満足させられない凡庸な男。栞のような女は、俺のような男の隣にいてこそ、その価値が輝くのだ。俺は彼女に高価なディナーを奢り、ブランドのアクセサリーを買い与え、スイートルームのベッドで情熱的に抱いた。彼女が俺の腕の中で恍惚の声を上げるたび、俺は言いようのない優越感に満たされた。栞は、俺というエリートのステータスを飾る、美しいトロフィーの一つだった。

そんな退屈しのぎのゲームに夢中になっていた頃、一通のメールが届いた。

『株式会社フューチャー・ブレイン・ダイナミクス』。聞いたことのない会社だったが、その内容は俺の心を鷲掴みにした。俺の成功体験、特に大学時代の「伝説のプレゼン」をVRで解析し、能力開発プログラムとして製品化したい、というのだ。

これだ、と思った。俺の非凡な才能が、ついに世界に認められる時が来たのだ。俺は二つ返事でオファーを受け、代表だという夜凪奏(よなぎかなで)の事務所へと向かった。

現れた夜凪という男は、俺より少し年下に見える、物静かな青年だった。その佇まいは、俺が普段付き合っている野心的なビジネスマンたちとはまるで違い、どこか学者じみていた。最初は少し拍子抜けしたが、彼が語るVRと脳科学を融合させた理論は、革新的で、非の打ち所がなかった。部屋の隅に置かれた最新鋭のVR装置が、彼の言葉の信憑性を裏付けているようだった。

「皇さんの、あの輝かしい成功体験こそ、我々のプログラムの核となるにふさわしい」

夜凪は、俺を持ち上げ、賞賛した。その言葉が、俺の自尊心を最高に満たしていく。こいつは分かっている。俺の本当の価値を。俺は完全に気を良くし、彼の提案を全て受け入れた。栞の恋人と同じ「かなで」という名前だったが、そんなありふれた偶然を気にするほど、俺は暇ではなかった。

「では、早速ですがこちらの装置へ」

促されるまま、俺は意気揚々とフルダイブ型のVR装置に座った。己の輝かしい過去を追体験し、それがさらに俺の能力を高める糧になる。まさにエリートである俺にふさわしい、最先端の体験だ。ヘッドセットが装着され、視界が暗転する。

『リラックスしてください。意識は、最も輝かしいあの日の記憶へと移行します』

夜凪の穏やかな声が聞こえたのを最後に、俺の意識は光に包まれ──そして、あの日の大講義室にいた。

そうだ、この光景だ。満員の聴衆。期待と尊敬に満ちた無数の瞳が、演台に立つ俺一人に注がれている。身体の底から、アドレナリンが湧き上がってくるのを感じる。俺はマイクを握り、完璧に暗記しているプレゼンの第一声を放った。滑り出しは、記憶通り、完璧だった。

しかし、数分が経った頃から、何かがおかしくなり始めた。聴衆の何人かが、ひそひそと何かを囁き合っている。最前列にいるはずの恩師が、険しい顔で腕を組んでいる。気のせいか? いや、そんなはずはない。あの日の聴衆は、全員が俺の言葉に魅了されていたはずだ。

混乱が、思考の片隅に芽生える。俺は動揺を悟られまいと、プレゼンを続けようとした。だが、自分の口から飛び出したのは、自分でも意味の分からない、支離滅裂な言葉だった。

「……ゆ、故に……このパラダイムシフトは、いわば……カオス理論におけるバタフライ効果であり、その初期値鋭敏性は……」

違う、こんなことを言うはずじゃなかった。頭の中にある原稿と、実際に発している言葉が、バラバラに乖離していく。脳が、自分のものじゃないような感覚。

その瞬間、講義室に笑い声が響いた。最初はクスクスという小さなものだったが、それは瞬く間に伝染し、やがて会場全体を揺るがすほどの、大きな嘲笑の渦となった。

「何だあいつ、呂律が回ってないぞ」
「緊張してんのか? だっせえな」

幻聴が、四方八方から俺を刺す。違う、こんなはずじゃなかった! 俺のプレゼンは完璧だったんだ!

パニックに陥った俺が、助けを求めるように恩師に目を向けた、その時だった。教授が勢いよく立ち上がり、俺を指差して、雷のような声で叫んだ。

「皇くん! 君のその発表は、海外の先行研究の盗用じゃないか! この盗人め!」

盗用。

その一言が、俺の世界を粉々に砕いた。そんな馬鹿な。ありえない。これは俺の、俺だけの、血の滲むような努力の結晶だ。

「ち、違います! これは俺のオリジナルです!」

俺は必死に叫ぶ。だが、演台の上のスクリーンに、無情にも「証拠」が映し出される。俺のグラフと、海外の論文のグラフが、寸分違わず並べられて表示されている。そんなもの、見たこともない。なのに、俺の脳は、それが真実であるかのように認識してしまう。

「盗作野郎!」
「恥を知れ!」
「エリート気取りが!」

罵声の嵐が、俺を叩きのめす。輝かしいはずの成功体験が、人生で最も屈辱的で、惨めな失敗の記憶へと、リアルタイムで上書きされていく。俺の自信、プライド、アイデンティティ、その全てが、音を立てて崩壊していく。

「やめろ……やめてくれ……! これは俺じゃない……俺の記憶じゃないんだあああああっ!」

俺は絶叫した。意識が遠のいていく中、講義室の隅に、あの男──夜凪奏が、冷たい、氷のような目をして俺を見下ろしている幻覚を見た気がした。

次に気がついた時、俺は自室のベッドの上にいた。ひどい悪夢を見た、と思った。だが、身体にこびりついた恐怖と屈辱感は、現実のものだった。

そして数日後。俺のキャリアにとって最も重要になるはずだった、大規模なプレゼンテーションの日。演台に立った瞬間、あのVRでの悪夢が、鮮明なフラッシュバックとして蘇った。

『盗作野郎!』

幻聴が、頭蓋骨の内側でガンガンと響き渡る。目の前のクライアントたちの顔が、俺を嘲笑う聴衆の顔と重なる。息ができない。思考が停止する。

「俺は……俺は、盗作なんてしていない……!」

気づいた時には、俺はそう絶叫していた。そして、そのまま糸が切れたように意識を失った。

……それが、俺の人生の全てが終わった瞬間だった。

会社はクビになり、業界での信用も完全に失墜した。友人たちは去り、あれだけちやほやしてきた女たちも、誰一人連絡してこなくなった。もちろん、栞からも。

今、この薄暗い部屋で、俺はただ悪夢の記憶に苛まれ続けている。外に出るのが怖い。人の目が怖い。かつて自信の源だった「伝説のプレゼン」は、今や俺を苛む最悪のトラウマだ。思い出すだけで、吐き気がし、心臓が凍りつく。

ふと、あの男の顔が浮かぶ。夜凪奏。あいつが、俺の記憶に何をしたんだ? なぜ、あんなことを? 俺が、あいつに何かしたというのか?

分からない。何も分からない。俺はただ、あいつの掌の上で踊らされ、理由も分からぬまま地獄に突き落とされた。それだけが、唯一の事実だった。

「なぜだ……なぜ、俺が……」

答えの出ない問いを、俺はこれからも、この暗い部屋で一人、永遠に繰り返し続けるのだろう。輝かしい未来も、絶対的な自信も、全てを奪われた抜け殻として。あの男の、氷のように冷たい目を、心のどこかで恐れ続けながら。