第8話 エピローグ:そして勇者は、ただの男に戻ることを選んだ
あれから、一年が過ぎた。
俺、綺羅星輝は、王城の一角に与えられた豪華な一室で、ただ無気力に窓の外を眺めるだけの毎日を送っていた。
窓から見える王都の景色は、一年前と何も変わらない。活気に満ち、平和そのものだ。魔王という脅威を打ち破った英雄、勇者テル様の功績だと、人々は今も俺を称賛する。街を歩けば、誰もが尊敬の眼差しを向け、感謝の言葉を口にする。
だが、そのすべてが、俺の心には少しも響かなかった。まるで、分厚いガラス板を一枚隔てた、遠い世界の出来事のようにしか感じられない。
英雄? 救世主?
笑わせる。俺は、ただの惨めな道化だ。
一人の女に手酷く振られ、プライドをズタズタにされ、挙句の果てには赤子のようにあしらわれて、城壁に叩きつけられただけの、哀れな男。それが、俺の真の姿だ。
あの日、バルコニーで意識を取り戻した俺は、地獄の縁を彷徨っていた。
全身を襲う、骨が砕けるような激痛。だが、それ以上に俺を苛んだのは、心の痛みだった。
最後に見た、リリアンヌのあの顔。
汚物でも見るかのような、絶対零度の侮蔑の眼差し。そして、冷酷なまでの、美しい微笑み。
あの表情が、悪夢となって毎晩俺を苛む。
彼女は、最初から、俺のことなど何とも思っていなかった。俺の一方的な勘違い。滑稽な一人芝居。俺が積み上げてきた自信も、プライドも、彼女にとっては道端の石ころほどの価値もなかったのだ。
【魅了】が効かなかったこと。そして、あの信じがたいほどの腕力。
彼女は、俺たちに本当の力を隠していた。いや、俺が「勇者」という役を演じきれるように、手加減し、サポートし、掌の上で踊らせていただけなのだ。魔王討伐という目的を達成するために。
俺は、彼女にとって、ただの「駒」だった。用が済めば捨てられる、便利な道具。その事実に気づいた時、俺の世界は音を立てて崩れ落ちた。
彼女は、あの日を境に、忽然と姿を消した。
国王も神殿も、国中を挙げて彼女の行方を捜索したが、何一つ手がかりは見つからなかった。まるで、初めからこの世界に存在しなかったかのように、跡形もなく。
やがて、公式見解が発表された。『聖女リリアンヌ様は、その大いなる使命を終え、神々の元へと還られた』。
馬鹿馬鹿しい。神々の元へ? 違う。彼女は、自分の意志で、どこかへ行ったんだ。俺という鬱陶しい蝿を振り払い、自由になるために。
もしかしたら、彼女には、故郷に大切な人がいたのかもしれない。旅の道中、時折彼女が見せていた、どこか遠くを見つめるような、あの儚げな表情。あれは、俺に向けられたものではなく、俺の知らない誰かに向けられたものだったのだ。
そう考えると、すべての辻褄が合った。俺が彼女にアプローチすればするほど、彼女の瞳の光が冷たく、硬質になっていった理由も。
「……勇者殿。お食事をお持ちしました」
侍女が、豪華な食事の乗ったワゴンを押して入ってくる。だが、俺は首を横に振るだけだった。何を食べても、砂を噛むような味しかしない。
世界を救った英雄には、ありとあらゆるものが与えられた。金銀財宝、名誉、地位。望めば、どんな美しい貴族の令嬢でも妻にできると、国王は言った。
だが、俺にはもう、何も欲しくなかった。
リリアンヌを手に入れるために、俺は勇者になった。彼女に相応しい男になるために、魔王を倒した。その目的を失った今、この世界にいる意味が、俺にはもう分からなかった。
勇者としてチヤホヤされるのも、もううんざりだ。俺が英雄であればあるほど、あの夜の惨めな俺とのギャップが、自分自身を苦しめる。
「なあ……」
俺は、部屋の隅で控えていた衛兵に、力なく話しかけた。
「俺を、召喚した場所へ、連れて行ってくれないか」
「……玉座の間、でございますか?」
「ああ。そこに、俺を元の世界に帰す方法も、あるんだろ?」
衛兵は驚いたように目を見開いたが、すぐに国王に許可を取りに行った。
しばらくして、俺は一年ぶりに、あの玉座の間に立っていた。
ここで、俺は「勇者」になった。そして、リリアンヌに一目惚れをした。俺の輝かしい物語が始まった場所。そして、終わりの場所。
「……テル殿。本当に、よいのか。この世界に残れば、貴殿は英雄として、何不自由ない暮らしを約束されるのだぞ」
国王が、心配そうに俺の顔を覗き込む。
「もう、いいんです。俺は、ただの綺羅星輝に、戻りたい」
英雄なんかじゃない。特別な力も持たない、ただの平凡な大学生に。
あの退屈で、代わり映えのしない日常が、今の俺には、どうしようもなく恋しかった。フラれた傷を抱えて、惨めに泣いて、それでも友達と馬鹿な話をして、酒を飲んで、眠って、また次の日が来る。そんな、当たり前の日常に、俺は帰りたかった。
この世界は、俺には眩しすぎた。そして、俺が恋した女性は、俺の手には到底負えない、神のような、あるいは悪魔のような存在だった。
大司祭が、召喚時と同じように、複雑な魔法陣を床に描き、呪文を唱え始める。
足元から、眩い光が立ち昇ってきた。
ああ、これで終わるんだな。
俺の、短くて、滑稽で、惨めな英雄譚が。
「テル殿。貴殿のことは、我らは永遠に忘れぬ。この世界の、真の救世主として」
国王の言葉が、光の中に溶けていく。
救世主。違う。俺は、ただ、恋に破れただけの、どこにでもいる男だ。
視界が、真っ白な光で満たされる。
最後に、瞼の裏に浮かんだのは、やはり、あの夜のリリアンヌの顔だった。
冷たく、美しく、そして俺を嘲笑うかのような、あの微笑み。
ちくしょう。
どうせなら、最後まで惚れたままでいさせてくれればよかったのに。そうすれば、俺は今も、幸せな勘違いの中で、英雄気取りでいられたのに。
彼女は、俺からすべてを奪っていった。恋も、プライドも、そして、この世界に留まる理由さえも。
次に目を開けた時、俺の耳に聞こえてきたのは、老教授の退屈な講義の声だった。
「……というわけで、この産業革命がもたらした社会的影響は……綺羅星くん? 綺羅星くん、大丈夫かね? 顔色が真っ青だが」
周りの学生たちが、一斉に俺を見る。
俺は、大学の大講義室の、一番後ろの席に座っていた。
机の上には、経済史の教科書と、くたびれたノート。ズボンのポケットで、スマホが静かに震えている。
夢、だったのだろうか。
いや、違う。この全身に残る、鈍い痛み。そして、心の奥深くに突き刺さったままの、鋭い喪失感。あれは、紛れもない現実だった。
俺は、一年という時間を、異世界で過ごし、そして、帰ってきたのだ。
「……なんでも、ありません。少し、貧血なだけです」
俺はそう言って、力なく笑った。
周りの学生たちは、興味を失ったように、すぐにまた教授の方へと向き直る。誰も、俺が世界を救った英雄だなんて知らない。誰も、俺が一人の聖女に恋い焦がれ、そして無様に砕け散ったことなんて、知らない。
俺は、ただの綺羅星輝に戻ったのだ。
それで、いい。
それが、いい。
俺は、ノートの隅に、誰にも見えないように、小さな文字で一つの名前を書いた。
『リリアンヌ』
そして、すぐにペンで黒く塗りつぶした。
さようなら、俺の最初で、最後の、どうしようもない恋。
さようなら、勇者だった俺。
俺は教科書を開き、もう二度と戻ることのない異世界の喧騒を振り払うように、退屈な講義に意識を集中させようと、ただ必死に努めた。