第7話 サイドストーリー:猟師はただ、愛しい人を待ち続ける
僕の名前はノア。このアッシュウッドという、森の恵みだけで成り立っているような小さな村で、猟師として暮らしている。僕の毎日は、とても単調だ。夜明けと共に目を覚まし、森に入って獣を狩り、獲物を村の皆と分け合い、日が暮れたら家に帰って弓の手入れをする。そんな、昨日と今日、そして明日も変わらないであろう、穏やかな日々。
ただ一つ、一年前のあの日から、僕の日常には、ぽっかりと大きな穴が空いてしまった。
僕の、たった一人の大切な人、リリがいなくなってしまったからだ。
リリは、僕の隣の家に住んでいた幼馴染だ。物心ついた時から、僕たちはいつも一緒だった。泣き虫だった僕を、いつも彼女が守ってくれた。森で迷子になった時、不安で泣きじゃくる僕の手を、彼女は一度も離さずに、夜通し探し続けてくれた。村のガキ大将に僕がいじめられていると、どこからか現れて、自分より大きな相手に猛然と食ってかかった。
『ノアは、私が守るの。だから、安心して』
そう言って、僕の前ではいつも気丈に振る舞う彼女。でも僕は知っていた。僕のために傷だらけになった彼女が、家に帰ってから一人でこっそり泣いていることを。彼女は、僕が思うよりずっと繊細で、優しい女の子だった。
僕たちは、いつからか、ただの幼馴染ではなくなっていた。どちらから告白したわけでもない。気づけば、お互いがいない人生なんて考えられなくなっていた。彼女の柔らかい金の髪に触れること、笑うと少しだけ細くなる紫色の瞳を見つめること、それが僕にとっての幸せのすべてだった。
いつか、二人でこの家で暮らそう。僕が狩ってきた獣を、リリが料理して、暖炉の前で一緒に食べるんだ。そんな、ささやかだけど、輝かしい未来を、僕たちは疑いもせずに信じていた。
あの日までは。
突然、村に王都から来たという立派な馬車が何台もやってきた。神殿の騎士だと名乗る、物々しい鎧を着た男たち。彼らは、村長の家にいた僕たちを見つけると、リリの前で恭しく跪き、こう言ったのだ。
『聖女様、お迎えに上がりました』と。
聖女? リリが? 何かの間違いだと思った。彼女は、確かに時々、不思議なことをした。僕が狩りの途中で負った深い傷に彼女が触れると、痛みが和らぐような気がしたり、彼女が祈ると、不作だった畑が急に元気を取り戻したり。でも、それは村のみんなが知っている、リリのちょっとした「おまじない」のようなものだと思っていた。
それが、世界を救う「聖女の力」だなんて。
村の大人たちは、神殿の権威の前に為すすべなく平伏した。リリを連れて行かないでくれ、と懇願する彼女の両親も、騎士たちに冷たくあしらわれるだけだった。
僕は、我慢できなかった。震える手で、いつも使っている猟師の弓を構えた。
「リリを、どこへもやらない! 彼女は、この村から一歩も出さない!」
僕の必死の抵抗は、しかし、鍛え上げられた騎士たちの前ではあまりにも無力だった。あっという間に取り押さえられ、僕は泥だらけの地面に打ち付けられた。悔しくて、情けなくて、涙が溢れた。
その時だった。
「……やめてください」
静かだけど、凛としたリリの声が響いた。彼女は、僕を打ちのめした騎士たちを、見たこともないような冷たい目で見下ろしていた。
「その人に、それ以上指一本でも触れたら、あなたたちを許さない」
その気迫に、屈強な騎士たちすら一瞬たじろいだように見えた。
そして彼女は、僕の方に向き直ると、そっと僕のそばにしゃがみこみ、泥に汚れた僕の頬を優しく拭ってくれた。
「大丈夫よ、ノア。私は行くわ」
「ダメだ、リリ! 行っちゃダメだ!」
「大丈夫。これは、私がやらなくちゃいけないことなの。でもね」
彼女は、僕の耳元に顔を寄せ、誰にも聞こえないように、でもはっきりと、こう囁いた。
「必ず、帰ってくるから。だから、ここで待っていて。私の帰る場所は、あなたの隣だけだから」
その言葉は、僕にとっての誓いになった。
彼女は自ら馬車に乗り込み、一度も振り返ることなく、王都へと去って行った。僕は、馬車が見えなくなるまで、ただその場で立ち尽くすことしかできなかった。
それからの一年、僕の生活は表面上は何も変わらなかった。森へ行き、狩りをする。でも、いつも心は上の空だった。
リリは、今頃どうしているだろうか。
聖女様、なんて呼ばれて、窮屈な思いをしていないだろうか。
ちゃんと、ご飯は食べているだろうか。
寂しくて、泣いてはいないだろうか。
勇者様と一緒に、魔王を倒す旅に出たと、風の噂で聞いた。危険な旅だ。怪我はしていないだろうか。怖い思いをしていないだろうか。
僕が彼女にしてやれることは、何一つない。ただ、彼女の無事を祈り、彼女がいつ帰ってきてもいいように、この家を守り、彼女の好きだったハーブを育て、毎日彼女のことを想うだけ。
村の皆は、リリのことを「村の誇りだ」と言った。聖女様を輩出した村として、少しだけ暮らしが楽になったからだ。でも、僕にとっては、そんなことはどうでもよかった。彼女が聖女であることなんて、少しも誇らしくなかった。僕はただ、僕だけの「リリ」に、そばにいてほしかった。
でも、彼女が決めたことだ。彼女が「やるべきこと」だと言ったのだ。そして、「必ず帰る」と約束してくれた。
僕は、彼女を信じる。僕が彼女を信じなくて、誰が信じるというんだ。
夜、一人で暖炉の火を見つめていると、寂しさが胸にこみ上げてきて、どうしようもなくなることがある。そんな時は、彼女が残していった、小さな刺繍の入ったハンカチを握りしめた。そこには、彼女の香りが、まだ微かに残っているような気がした。
「リリ……早く帰ってきて……」
いつしか、それが僕の口癖になっていた。
そんなある夜のことだった。
その日も、僕はいつもと同じように、夕食を終えてから弓の手入れをしていた。外は、風が強く、木々がざわめく音が聞こえる。明日の朝は、冷え込みそうだな、なんてことを考えていた。
その時、不意に、背後でギィ、と古びた扉の蝶番が鳴る音がした。
こんな夜更けに、誰だろうか。村の誰かが、何か急用でも持ってきたのか。
そう思って、ゆっくりと振り返った僕の目に、信じられない光景が飛び込んできた。
そこに立っていたのは、一年間、夢にまで見た、愛しい人の姿だった。
少しやつれたようにも見えたけれど、僕の記憶の中にいるリリと、何も変わらない。柔らかな金の髪、静かな紫の瞳。
「……リリ?」
声が、掠れた。夢を見ているのかもしれない。あまりにも彼女に会いたいと願いすぎたせいで、幻を見ているんだ。
「ええ、私よ、ノア。帰ってきたの」
彼女が、そう言ってふわりと微笑んだ。
ああ、夢じゃない。幻なんかじゃない。本物の、リリだ。
気づいた時には、僕は持っていた弓を床に落とし、彼女に駆け寄っていた。そして、この一年間、ずっとそうしたいと願っていたように、力いっぱい、彼女の華奢な身体を抱きしめた。
温かい。柔らかい。懐かしい、リリの匂いがする。
「リリ……! リリだ……! 本当に、リリなんだな……!」
「ええ。約束したもの。必ず、あなたの元へ帰ってくるって」
腕の中で、彼女がそう言って、僕の背中にぎゅっと腕を回してくれた。その感触に、僕の涙腺はあっけなく決壊した。よかった。本当に、無事で。帰ってきてくれた。
「おかえり……! おかえり、リリ! ずっと、ずっと信じてた! お前は、必ず帰ってくるって!」
彼女は、僕の腕の中で、幸せそうに目を細めた。
魔王はどうなったのか、勇者様はどうしたのか、聞きたいことは山ほどあった。でも、そんなことはどうでもよかった。今、彼女がここにいる。僕の腕の中にいる。それだけで、僕の世界は再び色を取り戻し、完璧なものになった。
「さあ、リリ。疲れただろう。外は冷える。中に入って。お前の好きだったハーブティーを淹れてやる」
彼女を家の中に招き入れ、暖炉の前の椅子に座らせる。僕は、この日のためにずっと切らさずにいた、彼女のお気に入りのカモミールの葉を小瓶から取り出し、ポットにお湯を注いだ。その間も、彼女がここにいるという事実が、まだ信じられないような、ふわふわとした気持ちだった。
「ねえ、ノア」
背後から、彼女の優しい声がした。
「私がいない間、寂しかった?」
「当たり前だろ。毎日、お前のことばかり考えてた。無事でいるだろうか、辛い思いをしていないだろうかって。一日だって、忘れたことなんてなかった」
振り返ってそう言うと、彼女は本当に嬉しそうに、花が綻ぶように笑った。ああ、その笑顔だ。僕が世界で一番好きな、その笑顔が見たかったんだ。
「私もよ。私も、毎日あなたのことだけを考えていたわ。あなたの元へ帰ることだけを、ずっと」
湯気の立つカップを彼女の前に置くと、彼女はそれを両手で包み込むように持ち、幸せそうに香りをかいだ。
「これから、ずっと一緒よ、ノア。もう、二度と誰にも私たちの邪魔はさせない」
「ああ、もちろんだ。もうどこへも行かせない。今度こそ、僕が君を守る」
僕がそう誓うと、彼女はカップを置き、立ち上がって、僕の首に後ろからそっと腕を回してきた。
「ええ。もう誰も、私たちの邪魔はできないわ。私が、させないもの」
彼女の言葉は、少しだけ力がこもっているように聞こえたけれど、きっと、もう二度と離れたくないという、彼女の強い気持ちの表れなんだろう。
僕も同じ気持ちだ。
彼女が聖女だったとか、世界を救ったとか、そんなことはもう関係ない。
僕の隣には、僕が愛した「リリ」が帰ってきた。
それだけで、十分すぎるほど、僕は幸せだった。
これから始まる、二人だけの静かで穏やかな毎日を思い描き、僕は、一年分の愛しさを込めて、彼女のその手を、強く、強く握り返した。