式場選びの最中に発覚した、義妹で婚約者の裏切り。俺は感情を殺し、親友ごとその人生を破壊する「完璧な復讐」を実行する

第8話 後日談 堕ちた偶像、泥濘(でいねい)を這う

ジリリリリリリリ……!
耳をつんざくような電子音が、薄汚れた六畳一間のアパートに響き渡る。
俺、高城蓮(たかぎ れん)は、薄い布団から這い出るようにして身を起こした。頭が割れるように痛い。昨日、現実逃避のためにあおった安酒のせいだ。
窓の外はまだ薄暗い。冬の冷気が隙間風となって入り込み、暖房のない部屋を冷蔵庫のように冷やしている。

「……クソッ、寒気がする」

吐き捨てるように呟き、枕元に転がっていたスマホを乱暴に掴んでアラームを止める。
画面のガラスはひび割れ、指に引っかかる感触が不快だ。表示された時刻は午前五時半。
かつての俺なら、この時間はまだキングサイズのベッドで、高級羽毛布団に包まれて泥のように眠っていたはずだ。あるいは、前の晩に引っ掛けた女の温もりを感じながら、優雅な朝を迎えていたかもしれない。
だが、今の俺にあるのは、カビ臭い部屋と、酷使して節々が悲鳴を上げている体、そして終わりのない絶望だけだ。

俺は洗面台に向かい、冷水で顔を洗った。
鏡に映った男と目が合う。
無精髭が伸び、頬がこけ、目は死んだ魚のように濁っている。肌は荒れ、かつて「大学一のイケメン」ともてはやされた面影はどこにもない。二十七歳とは思えないほど老け込んで見える。
これが、今の俺だ。

作業着に袖を通す。生地はゴワゴワして肌触りが悪く、あちこちに油汚れやセメントのシミがついている。
五年前。
俺はブランド物のスーツを着こなし、高級腕時計を身につけ、世界は自分のために回っていると本気で信じていた。
親父の会社を継ぎ、社長の椅子に座り、金と女に囲まれた人生を送る。それが約束された未来のはずだった。
あいつ――相沢湊(あいざわ みなと)を怒らせるまでは。

「……湊」

その名前を口にするだけで、胃の奥が焼けつくような感覚に襲われる。
俺の親友で、真面目だけが取り柄の地味な男。俺の引き立て役。
そう思っていた。だからこそ、あいつの婚約者だった美月に手を出したのだ。
湊が大切にしているものを奪い、あいつが絶望する顔を見て優越感に浸りたかった。ただのゲーム感覚だった。
だが、俺は知らなかった。あいつが「獲物」ではなく、鋭い牙を隠し持った「捕食者」だったことを。

俺は安全靴を履き、逃げるようにアパートを出た。
迎えのワンボックスカーに乗り込み、他の作業員たちと肩を寄せ合う。車内は汗とタバコと加齢臭が混じった強烈な臭いが充満している。
誰も口を利かない。ここにあるのは、社会の底辺で生きる者たちの無言の連帯感と、諦めだけだ。

現場に着くと、すぐに肉体労働が始まる。
今日の現場は、都内の湾岸エリアに建設中のタワーマンションだ。
皮肉な話だ。俺の実家、「高城建設」もかつてはこういう現場を取り仕切る立場だった。俺は将来、ヘルメットを被って視察に訪れ、「ご苦労」と作業員たちを見下ろすはずだった。
それが今では、俺自身がその「見下される側」にいる。

「おい高城! 何チンタラやってんだ! セメント袋もっと早く運べ!」

怒鳴り声を上げてきたのは、まだ二十歳そこそこの現場監督だ。
茶髪にピアス、言葉遣いも荒い。昔の俺なら、視界に入れる価値すらないと鼻で笑っていただろう。
だが、今の俺は彼に逆らえない。

「す、すいません……すぐやります」

俺は卑屈に頭を下げ、三十キロはあるセメント袋を肩に担いだ。
ずしりと重みがのしかかる。腰がきしむ。
この五年間で体は随分と鍛えられたはずだが、それでも苦痛は変わらない。
俺の体は、こんな重労働をするために作られたんじゃない。高級なソファに座り、サインをするためにあったはずなんだ。
そんな無意味なプライドが、未だに俺の心を蝕んでいる。

昼休み。
俺はコンビニで買った冷たいおにぎりを齧りながら、ひび割れたスマホを操作した。
これが唯一の娯楽だ。
検索窓に、無意識のうちに『相沢湊』と打ち込んでしまう。これはもう、自傷行為に近い日課になっていた。

検索結果のトップに表示されたのは、あるビジネス系ウェブメディアの記事だった。
『データ分析で企業の未来を拓く――若きコンサルタント、相沢湊氏インタビュー』
画面の中の湊は、仕立ての良いダークネイビーのスーツを完璧に着こなし、知的で自信に満ちた笑みを浮かべていた。
髪は整えられ、肌艶もいい。背景には、都心の高層ビルのオフィスが写っている。

記事を読む。
彼は大学卒業後、大手コンサルティングファームに入社し、異例のスピードで昇進。現在は独立し、自身の会社を立ち上げて成功を収めているらしい。
「過去の経験から、数字の裏にある真実を見抜くことの重要性を学びました」
インタビューの中で、彼はそう語っていた。
その「過去の経験」が何を指すのか、俺には痛いほど分かった。
俺たちのことだ。俺と親父が粉飾した決算書を見抜いた、あの時のことだ。
あいつは、俺たちへの復讐を足がかりにして、今の栄光を掴み取ったのだ。

「……ふざけんなよ」

俺は悔しさで唇を噛み締めた。
なんであいつだけ。
俺は全てを失ったのに。
大学を退学になり、内定も取り消され、親父の会社は倒産。親父は逮捕され、俺たち家族は路頭に迷った。
借金取りに追われ、住所を転々としながら、日雇い労働で食いつなぐ日々。
ネット上には俺の実名と顔写真、「不正論文」「不倫男」「犯罪者の息子」というレッテルが半永久的に残り続けている。
まともな会社に就職しようとしても、名前を検索された時点で門前払いだ。
俺の人生は、二十二歳で完全に終わったのだ。

「おい、高城。午後の作業始まるぞ」

同僚の声で、俺は現実に引き戻された。
スマホの画面を消す。湊の輝かしい笑顔がブラックアウトし、俺の汚れた顔が映り込む。
俺は泥だらけの手で顔を拭い、重い腰を上げた。

午後の作業はさらに過酷だった。
高層階への資材搬入。エレベーターが使えないため、階段を使ってひたすら往復する。
息が上がり、汗が目に入る。
ふと、足元の窓から下界を見下ろした。
豆粒のような車や人々。
かつて俺は、あそこを歩いていた。誰よりも高く、誰よりも偉いつもりで。
でも今は、物理的に高い場所にいながら、社会的な地位は地の底だ。

「……落ちてえな」

ふと、そんな言葉が漏れた。
このまま手すりを乗り越えてしまえば、全て終わる。
借金も、肉体的な苦痛も、湊への劣等感も、全て消えてなくなる。
だが、俺にはその勇気すらなかった。
俺は根っからの臆病者なのだ。湊にバレた時も、親父に殴られた時も、俺はただ震えて言い訳をすることしかできなかった。
死ぬことさえできない俺は、この地獄を生き続けるしかない。

夕方になり、作業が終わった。
体は鉛のように重い。
日当の一万円を受け取る。これが俺の命の値段だ。
以前なら、飲み代の端数にもならない金額。だが今は、これがなければ明日の飯も食えない。

帰りの電車賃をケチるため、俺は徒歩でアパートへ向かうことにした。
繁華街を抜けるルートだ。
煌びやかなネオン。楽しげな笑い声を上げる若者たち。カップル。
その全てが俺を拒絶しているように感じる。
俺は作業着の襟を立て、帽子を目深に被り、誰とも目を合わせないようにして歩いた。

その時だった。
高級レストランの入り口に、一台の黒塗りのハイヤーが停まった。
ドアが開き、中から男女が降りてくる。
俺は反射的に足を止めた。
その男の姿に見覚えがあったからだ。

相沢湊。
間違いなかった。スマホの画面で見たばかりの、あの男だ。
実物は写真よりもさらに洗練され、オーラを放っていた。
隣にいる女性は、モデルのように背が高く、知的な美しさを湛えた人だった。美月とはタイプが違うが、大人の余裕と気品を感じさせる。
二人は何か言葉を交わし、穏やかに微笑み合っていた。
その笑顔は、かつて俺に見せていた「人の良い親友」の顔とは違う。自信と実績に裏打ちされた、本物の強者の笑顔だ。

「……あ」

喉から掠れた声が出た。
声をかけようとしたわけではない。ただ、あまりの住む世界の違いに、言葉を失ったのだ。
五メートルも離れていない距離。
かつては肩を並べて酒を飲み、俺が奢ってやっていた相手。
今、俺は薄汚れた作業着で、悪臭を放ちながら闇に紛れている。
彼は光の中で、人生の勝者として輝いている。

湊がふと、こちらに視線を向けた気がした。
心臓が止まりそうになった。
気づかれたか?
罵倒されるか? 「ざまあみろ」と嘲笑われるか?
俺は身を竦めた。

だが、湊の視線は俺を素通りし、何事もなかったかのように女性の方へ戻った。
認識されなかった。
いや、視界には入っていただろう。だが、彼の脳が俺を「認識すべき対象」として処理しなかったのだ。
路上のゴミや、風景の一部と同じ。
俺という存在は、彼の人生において、もう取るに足らない異物ですらなくなっていた。

「――――」

その事実は、罵倒されるよりも遥かに残酷で、俺の心を粉々に打ち砕いた。
俺はずっと、彼を恨み、妬み、彼の中に俺という爪痕が残っていると思っていた。
「あいつの人生を狂わせてやった」という事実だけが、俺の歪んだプライドの最後の拠り所だった。
だが、彼はとっくに俺を乗り越え、遥か彼方へ進んでいたのだ。
俺だけが、あの五年前の場所で立ち止まり、泥の中を這いずり回っている。

湊と女性がレストランの中へ消えていく。
ドアが閉まり、俺は完全に一人取り残された。
寒さが一層厳しく感じられた。
涙すら出なかった。ただ、乾いた絶望だけが胸の空洞を吹き抜けていく。

俺はトボトボと歩き出した。
ポケットの中でスマホが振動する。
画面を見ると、非通知の着信だった。借金取りか、あるいは……。
俺は無視して歩き続けたが、振動が止まるとすぐにメッセージの通知が来た。
『Mine』の通知だ。ブロックしきれていない、昔のアカウントからだ。

『ねえ蓮くん、元気? 久しぶりに会わない? 私、今近くにいるの』

相沢美月。
かつて俺が湊から奪った女。
そして、俺と同じように転落した女。
アイコンの写真は昔のままだが、風の噂では、彼女もまた風俗に沈み、ボロボロになっていると聞いている。
「会わない?」という言葉の裏には、「金貸して」「泊めて」という魂胆が透けて見える。
俺たちが共有しているのは愛ではない。底辺同士の傷の舐め合いと、依存の可能性だけだ。

「……うぜえんだよ、クソ女」

俺は呟き、そのメッセージを削除した。
彼女と関われば、さらに泥沼に沈むだけだ。
だが、俺に他に誰がいる?
親父とは絶縁状態、母親は行方不明、友人はゼロ。
孤独が冷たい波のように押し寄せてくる。

俺はコンビニに入り、一番安いカップ酒とスルメを買った。
これが今の俺の晩飯であり、精神安定剤だ。
アパートに帰り、冷たい床に座り込んで酒を煽る。
アルコールが食道を焼き、胃に落ちる。
酔えば、少しの間だけ惨めさを忘れられる。
夢の中なら、まだ俺は「高城建設の御曹司」でいられるかもしれない。

「……俺は、どこで間違えたんだ」

酔いが回ると、毎晩のように同じ問いが口をついて出る。
答えは分かっている。
あの日、湊を裏切ったこと。
いや、もっと前だ。
金と権力を自分の実力だと勘違いし、他人を見下して生きてきたこと。
努力することを馬鹿にし、安易な快楽に逃げ続けたこと。
その全てのツケを、今払わされているのだ。

「戻りてえなあ……」

涙が滲んで視界が歪む。
大学のカフェテリアで、湊とくだらない話で笑い合っていた日々。
俺が「ノート貸してくれよ」と頼むと、湊が「しょうがないなあ」と苦笑していたあの顔。
あそこには、確かに友情があったはずなんだ。
俺がそれをドブに捨てた。自分から踏みにじった。

手の中のスマホ画面には、まださっきの湊の記事が表示されていた。
『失敗を恐れず、誠実に生きること。それが一番の近道です』
記事の締めくくりに書かれたその言葉が、俺への最後の審判のように突き刺さる。

俺はスマホを伏せ、膝を抱えた。
薄壁の向こうから、隣人のカップルの笑い声が聞こえてくる。
そのありふれた幸せすら、今の俺には手の届かない星の彼方にある。

俺は高城蓮。二十七歳。
前科持ちの父親を持つ、学歴なし、職なし、金なし、未来なしの男。
これが、他人の幸せを壊して笑っていた男の末路だ。
夜は長く、朝が来ても希望はない。
ただ、明日もまた、重いセメント袋を担ぎ、誰かに怒鳴られる一日が始まるだけだ。
俺はワンカップの底に残った酒を一気に飲み干し、逃げるように布団を頭から被った。
せめて夢の中だけでは、湊に謝ることができるだろうか。
そんな虫のいい願いさえ、叶わないと知りながら。