猛アタックをガン無視する聖女様、魔王討伐後に俺をぶっ飛ばして故郷の男の元へ帰りました

第4話 ただいま、私の愛しいノア。邪魔者はすべて片付けたわ

バルコニーの石壁に叩きつけられ、無様に崩れ落ちて気を失った男を見下ろし、私は小さく、そして深く息を吐いた。飛び散った石の破片が私の神官服を汚したが、そんなことはどうでもよかった。

「ようやく、お役御免ですね」

誰に言うでもなく、そう呟く。
私の足元に転がる、つい先ほどまで「英雄」と呼ばれ、世界の希望を一身に背負っていた男、綺羅星輝。彼が最後の悪あがきとばかりに放った【魅了】のスキルは、当然のように私には通用しなかった。
私の固有スキルである【隠蔽】は、自身の能力を偽装するだけではない。あらゆる魔力的な干渉、精神攻撃、呪いの類を、私の内側に届く前に霧散させる絶対的な防御壁でもある。神々による干渉すら欺くこの力の前に、人間の、それも格下の勇者が使う付け焼き刃のスキルなど、そよ風ほどの意味もなさない。
そして、彼が最後に頼った腕力。勇者として強化された彼の筋力は、確かに並の騎士を凌駕するだろう。しかし、私が魔王との戦闘ですら温存し続けた、神聖力を純粋な身体能力へと転換した状態の私には、赤子同然だった。
先ほど彼を吹き飛ばした力は、私がこの一年間、鬱憤と共に溜め込み続けたエネルギーの、ほんの僅かな発露にすぎない。もし本気で放てば、この王城ごと吹き飛ばしてしまえただろう。そうしなかったのは、単に後始末が面倒だったからだ。

「……勇者様!」
「何事だ!?」

広間の喧騒を突き破り、衛兵たちの慌ただしい声と足音がこちらへ向かってくるのが聞こえる。私がすべきことは、もうこの世界には何一つ残っていない。勇者は魔王を倒し、英雄譚は完結した。私は聖女としての役目を、完璧に果たしきったのだ。
これ以上、この穢れた場所に留まる理由はない。
私は意識を失った勇者に最後の一瞥をくれると、バルコニーの縁に立った。眼下には王都のきらびやかな夜景が広がっている。ここから飛び降りたところで、私には傷一つ付かないだろうが、もっと確実で、誰にも追跡されない方法がある。

「――【転移】」

意識を、ある一点に集中させる。
故郷の村。愛しいノアが待つ、あの小さな家。その座標は、私がこの城に連れてこられた日から、一日たりとも忘れたことはない。私の魂が、常に焦がれ続けた場所。
このスキルは、膨大な神聖力を消費するため、これまで一度も使うことはなかった。力を使い果たした姿を神殿の者たちに見られるわけにはいかなかったし、何より、この最後の切り札は、ノアの元へ帰るためだけに使いたかったから。
もはや、力を隠し続ける必要はない。
私の身体が淡い光の粒子に包まれ、周囲の景色が急速に歪んでいく。衛兵たちがバルコニーに駆け込んできて、驚愕に目を見開くのがスローモーションのように見えた。だが、彼らの手が私に届くことは永遠にない。
空間が捻じ曲がる独特の浮遊感の後、次に目を開けた時、私の鼻腔をくすぐったのは、王都の華やかな花の香りではなく、懐かしい土と、湿った草の匂いだった。

目の前には、見慣れた木の扉がある。所々、色が剥げ、傷がついている。私がノアと背比べをした時に付けた柱の傷も、そのまま残っていた。
一年。長かった。永遠に続くかと思われた、地獄のような時間だった。
聖女の仮面を被り、感情を殺し、ただひたすらに耐え続けた日々。あの騒がしい男の求愛を笑顔で受け流し、王や神官たちの思惑をいなし、すべてを「ノアの元へ帰るため」という一点だけで乗り越えてきた。
そのすべてが、今、終わった。
私はゆっくりと震える手で、純白の神官服のフードを脱いだ。そして、ずっと荷物の奥深くにしまい込んでいた、素朴な革の髪留めを取り出し、神殿で結われた豪奢な髪型を解き、いつものように無造作に一つに束ねた。
これで、聖女リリアンヌ・フォン・クロイツェルは死んだ。
ここからは、ただの「リリ」だ。
静かに木の扉を開ける。ギィ、と小さな蝶番の音が、心臓の鼓動のように大きく響いた。

「……ただいま、ノア」

家の主は、暖炉の前で弓の手入れをしていたようだった。私の声に、その肩がびくりと跳ねる。ゆっくりと振り返った彼は、私の姿を認めると、驚きに鳶色の目を見開いたまま、動きを止めた。
その顔には、見慣れたそばかすが散っている。少し伸びた黒髪が、暖炉の光を浴びて柔らかく輝いていた。私が焦がれてやまなかった、世界で一番愛しい人の姿。

「……リリ?」

彼の唇から、私の本当の名前が、掠れた声で紡がれる。
無理もない。魔王討伐の報せは、こんな辺境の村に届くのはまだ先だろう。こんな夜更けに、私が突然帰ってくるなど、夢にも思わなかったに違いない。

「ええ、私よ、ノア。帰ってきたの」

私がそう言って微笑むと、彼は持っていた弓と矢を床に落とし、弾かれたように駆け寄ってきた。そして、力強く、けれど壊れ物を扱うかのように優しく、私の身体を抱きしめた。

「リリ……! リリだ……! 本当に、リリなんだな……!」

背中に回された腕の力強さ、耳元で聞こえる彼の必死な声、そして、私の肩口に顔を埋める彼の、懐かしい匂い。そのすべてが、私が一年間、ただの一度も手放さなかった宝物だった。
ああ、帰ってきた。本当に、帰ってきたんだ。

「おかえり……! おかえり、リリ! ずっと、ずっと信じてた! お前は、必ず帰ってくるって!」
「ええ。約束したもの。必ず、あなたの元へ帰ってくるって」

私は彼の背中に腕を回し、その温もりを確かめるように、ぎゅっと力を込めた。王城での出来事も、勇者のことも、何もかもが遠い世界の出来事のように感じられた。衛兵に追いかけられる心配も、神殿に連れ戻される恐怖も、もうない。私の力を使えば、たとえ国中の軍隊が押し寄せてきたとて、ノアと私に指一本触れさせることはない。
ようやく手に入れた、二人だけの聖域。

しばらくの間、私たちは言葉もなく、ただお互いの存在を確かめるように抱きしめ合っていた。やがて、ノアがゆっくりと体を離し、私の顔を覗き込んだ。その瞳は、喜びと、そして少しの不安で潤んでいる。

「一体、どうやって……? 魔王は……それに、勇者様たちは……」
「魔王は、もういないわ。勇者様が、立派に討伐なさった」

私は、この一年間で完璧に身につけた、穏やかで嘘のない微笑みを浮かべて答えた。

「私は、聖女としての役目をすべて終えたの。だから、こうして帰ってきた。王様にも、神殿にも、許可はいただいているわ。もう、どこにも行かなくていいのよ」

もちろん、真っ赤な嘘だ。
今頃、王城は失踪した聖女の行方を巡って、蜂の巣をつついたような大騒ぎになっていることだろう。だが、そんなことは、この純粋で心優しい私の恋人に教える必要はない。彼は、私が「役目を終えて、円満に帰ってきた」と信じてくれれば、それでいい。余計な心配や不安は、私がすべて取り除いてあげる。

「そうか……そうだったのか……! よかった……本当によかった……!」

ノアは私の言葉を疑うことなく、心からの安堵の表情を浮かべた。そして、もう一度、今度は私の頬に優しく触れながら、そっと口づけを落とした。
その温かい感触に、私の心は完全に溶けていく。この一年間、凍りついていた感情が、ようやく春の雪解け水のように流れ出すのを感じた。

「さあ、リリ。疲れただろう。外は冷える。中に入って。お前の好きだったハーブティーを淹れてやる」
「ありがとう、ノア」

彼に手を引かれ、家の中に入る。暖炉の暖かな光が、私の身体を優しく包み込んだ。
ノアが慣れた手つきでお湯を沸かし、棚からハーブの入った小瓶を取り出す。その一つ一つの仕草が、愛おしくてたまらない。私は椅子に腰掛け、彼の背中をじっと見つめていた。

「ねえ、ノア」
「ん? どうした、リリ」
「私がいない間、寂しかった?」
「当たり前だろ。毎日、お前のことばかり考えてた。無事でいるだろうか、辛い思いをしていないだろうかって」

振り返った彼の顔は、少し困ったように、でも嬉しそうに笑っていた。
ああ、なんて愛しい人。私の唯一。私のすべて。

「私もよ。私も、毎日あなたのことだけを考えていたわ。あなたの元へ帰ることだけを、ずっと」

やがて、湯気の立つカップが私の前に置かれた。懐かしい、優しい香り。一口飲むと、その温かさが、身体の隅々まで染み渡っていくようだった。

「これから、ずっと一緒よ、ノア。もう、二度と誰にも私たちの邪魔はさせない」

私はカップを置き、立ち上がって、彼の首に後ろから腕を回した。

「ああ、もちろんだ。もうどこへも行かせない」

彼の言葉に、私はこの一年で、初めて心からの笑顔を浮かべた。聖女の仮面ではない、ただの「リリ」としての、満ち足りた笑顔。
邪魔者? ええ、そうね。たくさんいたわ。私の前からいなくなってほしい人間は。
私をモノにしようとした、愚かな勇者。
私を政治の道具にしようとした、王や貴族たち。
私を神の使いと祭り上げ、籠の中に閉じ込めようとした、神官たち。
でも、もう大丈夫。彼らは、もう二度と私とノアの間に立つことはない。

「ええ。もう誰も、私たちの邪魔はできないわ。私が、させないもの」

私の瞳には、ノアへの深く、そしてどこまでも純粋な愛情と、彼をこの腕の中から二度と誰にも渡さないという、底なしの独占欲の炎が、静かに、しかし力強く燃えていた。
王国の英雄が失踪した聖女を探して、世界中を巻き込む大騒動を繰り広げている、まさにその頃。
世界の片隅にある辺境の村では、一組の恋人たちが、誰にも邪魔されることのない、静かで、完璧で、そして永遠に続く幸せな日常を、取り戻したのだった。