第4話 思い出のフォーマット、そして絶望への上書き保存
夕暮れの光が、懐かしい大学のキャンパスを茜色に染め上げていた。並んで歩くケヤキ並木。講義の合間によく二人で時間を潰した中庭のベンチ。その全てが、かつての幸福だった日々の残像を網膜に焼き付けてくる。だが、俺の心は微動だにしなかった。これらの美しい風景は、これから始まる残酷なフィナーレのための、舞台装置に過ぎない。
「なんだか、学生時代に戻ったみたいだね」
隣を歩く栞が、楽しそうに声を弾ませる。皇玲央の失脚という現実から逃れるように、彼女は今、俺との過去の思い出に必死に clingingしている。その姿は、嵐の中、一本の朽ちかけた藁にすがる難破船の乗組員のようで、哀れで、そして滑稽だった。
「そうだな。もう何年も経つのが信じられないくらいだ」
俺は穏やかに相槌を打ちながら、彼女を最終目的地へと導いていく。目的地は、デザイン科の学生たちの作品が展示されている、小さなギャラリースペース。その一角に、今もなお、彼女が大学三年生の時にグランプリを受賞した作品が、誇らしげに飾られている。
ガラスケースの中に収められた、環境問題をテーマにしたウェブサイトのモックアップ。その洗練されたデザインと、力強いメッセージ性は、今見ても色褪せていない。これこそが、彼女のデザイナーとしての原点であり、プライドの源泉。そして、俺たちの最も輝かしい思い出の象徴。
「わあ……まだ飾ってくれてるんだ。嬉しいな」
栞はガラスケースにそっと手を触れ、愛おしそうに自分の作品を眺めている。その瞳は、純粋な喜びにきらめいていた。玲央との過ちを、この輝かしい過去で洗い流し、俺との関係を再構築できる。彼女は本気でそう信じているのだろう。
「この作品、本当に懐かしいね。君が一番輝いてた時だ」
俺がそう言うと、栞は嬉しそうに、そして少し照れたように振り返った。
「そんなことないよ。でも……あの時は本当に嬉しかったな。奏が、自分のことみたいに喜んで泣いてくれたから。あれが、何より一番嬉しかった」
そうだ。それでいい。その美しい思い出を、今、この瞬間に強く噛みしめろ。その記憶が高く、輝かしいものであるほど、汚され、地に堕ちた時の絶望は、より深く、より甘美なものになるのだから。
俺はゆっくりと息を吸い込み、舞台の幕を上げるための、最初のセリフを口にした。
「栞。ずっと言えなかったことがあるんだ」
俺の突然の真剣な声色に、栞は「え?」と不思議そうな顔でこちらを見つめる。その無垢な瞳に、俺は最大限の苦悩と罪悪感を滲ませた表情を向けた。完璧な演技。これもまた、俺の得意分野だ。
「あのコンペのこと、本当は……」
俺はそう言って、懐から数枚の紙を取り出した。それは、この日のために俺が捏造した、完璧な証拠物件。一つは、俺と架空の叔父との間のメールのやり取りを印刷したもの。もう一つは、その叔父との通話記録を模したログデータだ。
「あの時の審査員の一人、覚えているかな。初老の、温厚そうな感じの教授。あの人、実は僕の叔父さんだったんだ」
「え……? 奏の、おじさん……?」
栞の顔から、さっと血の気が引いていくのが分かった。彼女の心が揺らぎ始めた、その瞬間。俺はポケットに隠し持っていた小型のデバイスのスイッチを、誰にも気づかれずに押した。
最後のトリガーが、引かれた。
それは、超低周波の電磁パルスを発生させる装置。ここ数週間、俺は栞が眠っている間に、このデバイスを使って彼女の脳に微弱な刺激を与え続けていた。それは、俺が創り上げた「偽の記憶の種子」を、彼女の無意識の領域に植え付けるための、慎重な刷り込み作業だった。
そして今、このトリガー信号によって、休眠状態だった偽りの記憶の種子が、強制的に発芽させられる。
栞の脳裏に、ありもしない光景が、まるで実際に自分が体験したかのような強烈なリアリティをもって、フラッシュバックする。
──夜、自室で電話をしている奏の姿。『叔父さん、お願いだよ。どうしても彼女を勝たせてあげたいんだ。僕にできることなら何でもするから』と、必死に誰かに懇願している声。
──コンペの最終審査会場の光景。自分の作品よりも、遥かに独創的で、技術的にも優れた他の参加者の作品の数々。
──受賞後の祝賀パーティー。遠巻きに自分を見て「実力じゃなかったらしいぞ」「彼氏の力がすごいんだってさ」と憐れむように囁き合う、他の参加者や審査員たちの姿。
偽りの視覚情報、偽りの聴覚情報。それらが、脳内で本物の思い出と瞬時に、そして完全に融合し、彼女の過去を根底から汚染していく。彼女が信じてきた輝かしい過去が、音を立てて崩壊していく。
「嘘……」
栞の唇が、か細く震えた。顔は蒼白になり、その瞳は激しく揺れている。
「嘘だ……そんなはず、ない……! あれは、私の実力だったはず……!」
彼女は、かろうじて絞り出した声で否定する。だが、その声は自信なさげに震え、もはや何の力も持たなかった。俺は、追い打ちをかけるように、冷酷な問いを投げかけた。
「じゃあ、この記憶は何なんだい? 栞」
俺がそう言った瞬間、栞の脳裏には、さらに鮮明な偽りの記憶が叩きつけられる。受賞の知らせを聞いて、俺に電話をする彼女自身。泣きながら「奏が応援してくれたからだよ」と言う彼女に、電話の向こうの俺は、一瞬だけ沈黙し、そして苦しそうに「……ああ、そうだな」とだけ答える。あの時の、俺の涙を流しての喜びは、全てが偽りだった。才能のない彼女を、不正な手段で勝たせてしまったことへの罪悪感からくる、偽りの涙だったのだ。
「あ……ああ……っ!」
栞は、ついに立っていられなくなり、その場に崩れ落ちた。頭を両手で抱え、信じられないというように何度も首を振っている。
彼女のデザイナーとしての唯一無二のプライド。
俺との関係における、最も美しく、純粋だったはずの思い出。
その両方が、今、この瞬間に、「不正」と「欺瞞」にまみれた、醜悪で恥ずべき記憶へと完全に書き換えられたのだ。自分の才能も、愛された記憶も、全てが奏という男によって与えられた、空っぽの偽物だった。その絶望的な事実が、彼女の精神を内側から食い破っていく。
俺は、そんな彼女の姿を、冷え切った瞳で見下ろした。ここからはもう、演技は必要ない。俺は、ゆっくりと仮面を剥がし、ありのままの憎悪と侮蔑をその目に宿した。
「やっと分かったみたいだな、栞」
その声は、自分でも驚くほど冷たく、無感情だった。
「君が、皇玲央という男と、僕の知らないところで愛を育んでいたように。僕も、君の知らないところで、君の記憶に少しだけ手を加えさせてもらった」
俺の言葉に、栞は顔を上げた。その目は恐怖と混乱で大きく見開かれ、もはや何の光も宿していなかった。
「君が僕の心を弄んだように、僕も君の記憶を弄ばせてもらったんだ。簡単なことだったよ。君が最も拠り所にしている記憶を特定し、そこに少しだけ『ノイズ』を混ぜてやるだけでいい。君の脳は、僕が仕掛けた偽の情報を、勝手に真実だと補完してくれた」
俺は続ける。その言葉一つ一つが、彼女の心を抉る鋭利な刃となるように。
「君が愛した新しい王子様、皇玲央は、プライドの拠り所だった過去の成功体験を汚染されて、もう二度と人前に立てない抜け殻になった。そして君は、君自身の才能も、僕との美しい思い出も、全てが僕によって作られた偽物だったと知った。自分の人生が、根底から嘘だったと知った気分はどうだい?」
「……あ……う……」
栞はもはや、意味のある言葉を発することもできなかった。ただ、喉の奥から引き攣ったような嗚咽を漏らし、アスファルトの上に突っ伏すことしかできない。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになったその顔は、俺が愛したかつての彼女の面影を、どこにも残していなかった。
俺は、そんな無様な姿を数秒間だけ見下ろした後、静かに彼女に背を向けた。
「さようなら、月詠栞。君が信じていた『優しい奏』は、君が裏切ったあの日に死んだ。そして、君の記憶の中に、僕という存在はもう必要ない」
夕闇が迫るキャンパスに、彼女の絶望的な慟哭だけが響き渡る。俺は一度も振り返ることなく、その場を立ち去った。俺たちの六年間は、今、完全に終わった。
その日のうちに、俺は同棲していたマンションに残っていた私物を全て運び出し、鍵をポストに投函した。栞からの着信も、メッセージも、全て無視してブロックし、全ての連絡先を削除した。俺の人生から、月詠栞という存在を完全にフォーマットした。
数日後。
都心の一等地に新しく借りた、広々としたオフィス。そこが「夜凪メモリーデザイン事務所」の新しい拠点だった。窓の外には、きらびやかな摩天楼の夜景が広がっている。
デスクの上のスマートフォンが、静かに着信を知らせた。登録されていない番号からの電話。俺は、受話器を取り、穏やかな声で応対した。
「はい、夜凪メモリーデザイン事務所です」
『あ……あの、ホームページを拝見しまして……。私、一ヶ月前に、交通事故で……恋人を亡くしまして……。その時の、辛い記憶が、どうしても頭から離れなくて……』
電話の向こうから聞こえてきたのは、まだ若い、涙に濡れた女性の声だった。クライアントからの、トラウマ治療の依頼だ。
俺は、窓の外の夜景に目をやりながら、聖職者のような、どこまでも優しく、そして穏やかな声で彼女に語りかけた。
「そうですか……それは、お辛かったでしょう。大丈夫ですよ」
一呼吸置いて、俺は続ける。
「あなたのその『辛い記憶』、私が少しだけ、優しく編集しましょうか?」
受話器を握る俺の声は、どこまでも穏やかだった。しかし、ガラス窓に映る俺の瞳の奥には、愛した人間の精神を自らの手で、完璧に破壊した者だけが宿すことができる、深く、昏く、そしてどこか愉悦に満ちた光が、静かに揺らめいていた。
二度と輝きを取り戻すことのない、「偽りの記憶」という名の精神の牢獄。その中で、栞と玲央は、これから永遠に終わらない後悔と絶望を味わい続けることになる。
そして俺は、これからも人々の記憶を編集し続けるだろう。ある時は救済者として、またある時は……。
夜景の光が、俺の冷たい笑みを、ぼんやりと照らし出していた。