幼馴染が浮気したので彼女の幸せを願って身を引いたら、なぜか学年一の美少女生徒会長に「ここからは私の番です」と溺愛されることになった

第5話 サイドストーリー1 優しい世界の、片隅で

物心ついた時から、俺の隣にはいつも響木詩織がいた。泣いている時は一緒に泣いてくれて、笑う時は一緒に笑ってくれる。太陽みたいな彼女が隣にいることが、俺にとっての「当たり前」だった。

だから、高校一年の時、勇気を振り絞って告白し、彼女が「私も、ずっと湊のことが好きだったよ」と顔を真っ赤にして頷いてくれた時は、人生で一番幸せな瞬間だと思った。

俺みたいな、どこをとっても平凡な男が、学校でも人気の可愛い詩織と付き合えるなんて。それは奇跡以外の何物でもなかった。だから俺は、彼女に相応しい男になろうと必死だった。彼女が少しでも笑顔でいてくれるように、彼女が困っていたら誰よりも早く助けられるように。彼女の幸せが、俺の幸せだった。

その「当たり前」が、ある日突然、音を立てて崩れ落ちた。

「他に、本当に好きな人が、できちゃったの」

公園のベンチで告げられた、残酷な真実。頭が真っ白になり、心臓を鷲掴みにされたような痛みが走った。なんで? どうして? 俺の何がいけなかった? 疑問が渦巻く一方で、俺の頭は妙に冷静な部分があった。

詩織に、俺よりも好きな人ができた。
それは、仕方のないことだ。

だって、俺は平凡で、何の取り柄もない男だ。むしろ、今までこんな俺と付き合ってくれたこと自体が、奇跡だったんだ。いつか、彼女がもっと素敵な、俺なんかよりもずっと彼女に相応しい誰かを見つける日が来る。その可能性を、俺は心のどこかでずっと恐れていた。そして、その「いつか」が、今、来ただけのことだ。

目の前で、泣きそうになるのを堪えている詩織。彼女は優しいから、俺を振ることに罪悪感を抱いているのだろう。俺がここで泣いたり縋り付いたりしたら、彼女を困らせてしまうだけだ。

俺にできる最後のことは、彼女の幸せを、心から願ってあげることだ。

「そっか……。詩織に、本当に好きな人ができたんだな」

喉から絞り出した声は、自分でも驚くほど穏やかだった。

「その人のこと、大事にしろよ。詩織が幸せなら、俺は……それでいいから」

嘘じゃない。本心だった。もちろん、胸は張り裂けそうに痛い。今すぐにでも、行かないでくれと叫びたい。でも、彼女が選んだ「本当の幸せ」の邪魔をする権利は、俺にはない。

彼女に背を向け、歩き出した瞬間、堪えていた涙が勝手に溢れてきた。情けない。最後まで、格好いい男にはなれなかった。でも、これでいいんだ。これで、詩織は幸せになれるんだから。

そう、信じていた。

詩織と別れた次の日から、俺の世界は色を失った。教室にいても、廊下を歩いていても、どこか心にぽっかりと穴が空いたようで、何をしても楽しくなかった。

周囲からの同情や好奇の視線が痛い。詩織が、クラスの陽キャである炎堂と付き合い始めたという噂が、俺の耳にも届いていた。正直、炎堂が相手だというのには少し驚いた。詩織が彼のどこを好きになったのか、俺には全く理解できなかったからだ。でも、恋とはそういうものなのかもしれない。他人がとやかく言うことじゃない。

俺はただ、傷ついた心を悟られないように、普段通りを装うのに必死だった。

そんな時だった。まるで、モノクロの世界に一筋の光が差し込むように、彼女は俺の前に現れた。

「――単刀直入に言います。私、あなたのことがずっと好きでした」

生徒会室で、学年一の美少女、白鷺氷華にそう告げられた時、俺は本気で自分の耳を疑った。疲労で、幻聴でも聞こえているのかと思った。

「どうか、私と付き合っていただけませんか」

立て続けに投下された爆弾に、俺の脳は完全に処理能力をオーバーした。なんで? どうして? という疑問しか浮かばない。俺みたいな男のどこに、この完璧な美少女が好きになる要素があるというのか。

「響木さん、あなたに嘘をつきましたよね?」

さらに、彼女は詩織の嘘まで見抜いていた。
詩織が俺を試すためだけに、あんな芝居を打ったのだと。

その事実を知った時、俺の心に浮かんだのは「やっぱりそうだったのか」という安堵ではなかった。むしろ、より深い絶望だった。

なんだ。結局、俺は詩織に試される程度の、その程度の存在だったのか。彼女の気まぐれ一つで、俺の心はこんなにもぐちゃぐちゃにかき乱されて。そして、彼女はそんな嘘を平気でつけるほど、俺のことを軽く見ていたのか。

「本当に好きな人ができた」という言葉を信じ、断腸の思いで彼女の幸せを願った俺の決意は、ただの道化だったということか。

ずきり、と心が痛む。それは、失恋の痛みとはまた違う、自分の存在価値そのものを否定されたような、鈍い痛みだった。

そんな傷心の俺に、氷華は容赦なく踏み込んできた。

「過去はもういいんです。あなたは、響木さんによって解放された。これからは、私のことだけを見てください」

その日から、俺の日常は氷華の色に染められていった。昼休みには豪華な弁当を持って現れ、半ば強引に「あーん」をしてこようとする。放課後は生徒会室に連れ込まれ、他愛のない仕事を手伝わされる。

最初は、戸惑いしかなかった。周りの目も気になるし、何より、詩織と別れたばかりの俺に、そんな資格はないと思っていた。

でも、氷華はいつも、まっすぐだった。

「藍月くん、顔色が優れませんね。昨夜は眠れましたか?」
「このお茶、リラックス効果があるそうですよ。どうぞ」
「あなたが手伝ってくれると、仕事がとても捗ります。ありがとうございます」

彼女は、俺のことだけを、じっと見てくれていた。俺の些細な変化に気づき、心から心配し、そして俺の存在を肯定してくれた。彼女と一緒にいると、詩織に裏切られてささくれ立っていた心が、少しずつ、本当に少しずつだけど、癒されていくのが分かった。

今まで、俺の「優しさ」は、詩織にとって「当たり前」のものだった。でも氷華は、俺が何かをするたびに、「ありがとう」と花が咲くように微笑んでくれる。その笑顔を見るたびに、俺は自分が誰かの役に立てているんだと、ここにいてもいいんだと、そう思えるようになっていった。

そんなある日の放課後。俺は一人、屋上にいた。生徒会も部活もない、束の間の静寂。ぼんやりと街を眺めながら、この数日間の出来事を反芻していた。詩織のこと、氷華のこと。自分の気持ちが、どこにあるのか分からない。ただ、混乱した心を整理したかった。

そこに、詩織が現れた。

「全部嘘なの!」

彼女は泣きじゃくりながら、あの日ついた嘘の真相を語った。嫉妬してほしかっただけなのだと、本当に好きなのは俺だけなのだと。

その言葉を聞いて、俺の心は、どうしようもなく冷めていくのを感じた。

氷華から真相を聞かされていたから、驚きはなかった。ただ、彼女の口から直接その言葉を聞いて、確信に変わったことがある。

ああ、やっぱり俺は、彼女にとって「都合のいい存在」でしかないんだな、と。

彼女の涙は、本物だろう。後悔しているのも、本当だろう。でも、その涙の理由は、「俺を失った悲しみ」というよりも、「自分の思い通りにならなかった悔しさ」のように、俺には見えてしまった。

彼女は、俺がまだ自分を好きでいて、いつまでも自分を待っていると、信じて疑っていなかったのだろう。だから、ほとぼりが冷めた頃にこうして謝れば、また元に戻れると、そう思っていたに違いない。

「復縁するために君がついてる、新しい嘘にしか聞こえないんだ」

俺がそう告げた時の、彼女の絶望に染まった顔。
その顔を見て、少しだけ胸が痛んだ。俺は、なんてひどい男だろうか。泣いて謝っている女の子に、追い打ちをかけるような言葉を投げつけて。

でも、もう後戻りはできなかった。一度失われた信頼は、そう簡単には戻らない。彼女の言葉を、もう一度信じる勇気が、俺にはなかった。もしまた信じて、また裏切られたら? 俺の心は、もうその衝撃に耐えられないだろう。

そんな時だった。屋上のドアが開き、氷華が現れた。

「藍月くん。こんな所にいたんですか」

まるで救いの女神のように、彼女はそこに立っていた。彼女は、俺と詩織の間の重苦しい空気を一瞬で見抜き、そして、俺に手を差し伸べた。

「さあ、行きましょう。過去に囚われている時間はありませんよ」

その言葉が、その手が、俺をがんじがらめにしていた過去の呪縛から、解き放ってくれるような気がした。

俺は、一瞬ためらった。詩織の、縋るような視線が痛い。
でも、俺は選んだ。

傷ついた俺を見つけ出し、ただまっすぐに「好きだ」と言ってくれた、目の前の少女の手を。
「当たり前」じゃない優しさで、俺の心を温めてくれた、この温かい手を。

俺が彼女の手を握り返した瞬間、氷華は心底嬉しそうに微笑んだ。その笑顔は、今まで見たどんな笑顔よりも魅力的で、俺の心を強く惹きつけた。

詩織の前を通り過ぎる時、彼女がどんな顔をしていたかなんて、もう見ることができなかった。俺にできることは、前を向いて、この手を取ってくれた氷華と一緒に、歩き出すことだけだった。

「ありがとう、藍月くん」

階段を下りながら、氷華が小さく呟いた。

「なにが?」
「私の手を、取ってくれて」

その声は、少しだけ震えていた。いつも完璧で、自信に満ち溢れている彼女が見せた、ほんの少しの弱さ。それに気づいた時、俺の心の中に、今まで感じたことのない、愛おしいという感情が芽生えていることに気づいた。

俺は、まだ詩織のことを完全に忘れられたわけじゃない。心の傷が、完全に癒えたわけでもない。

でも、この手を取ってくれた彼女がいるなら。
俺のことだけをまっすぐに見てくれる彼女がいるなら。

俺は、もう一度、前を向いて歩いていけるかもしれない。

優しい世界の片隅で、俺は独りだと思っていた。でも、違った。俺のことを見つけて、手を差し伸べてくれる人が、ちゃんといたんだ。

その温かい手の感触を確かめながら、俺は、新しい未来へと続く一歩を、確かに踏み出した。