第6話 サイドストーリー2 好機到来、完璧なる恋の戦略
白鷺氷華は、いつだって完璧だった。
由緒ある家柄に生まれ、物心ついた時から厳しい教育を受けてきた。勉強、武道、芸術、その全てにおいて、常に一番であることが求められた。そして、私はその期待に完璧に応えてきた。
人々は私を「才色兼備の完璧超人」「高嶺の花」と呼ぶ。その評価は心地よくもあったが、同時に息苦しさも感じていた。誰も、本当の私を見てはくれない。誰も、私の内面にある弱さや、普通の少女と変わらない感情に気づこうともしない。白鷺氷華という完璧な偶像を、ただ崇めているだけ。
そんな灰色の世界に、初めて色が差したのは、高校の入学式の日のことだった。
慣れない満員電車に乗り遅れそうになり、駅の階段を駆け上がった瞬間、私は派手に転んでしまった。膝を強く打ち付け、破れたストッキングから血が滲む。散らばった荷物と、周囲からの好奇の視線。完璧な白鷺氷華にあるまじき失態。羞恥と痛みで立ち上がれずにいると、一人の男子生徒が私の前に屈み込んだ。
「だ、大丈夫ですか!?」
どこにでもいそうな、平凡な顔立ちの男の子。彼は、私の顔色を窺うでもなく、ただ純粋な心配の色を瞳に浮かべていた。
「立てますか? ほら、これを」
彼は自分のハンカチを差し出し、私の傷口をそっと押さえた。そして、散らばった教科書や筆記用具を、一つ一つ丁寧に拾い集めてくれた。
「あの……ありがとうございます」
「いえ、気にしないでください。それより、保健室に行った方が……あ、でも入学式が始まっちゃうか。とりあえず、これ、使ってください」
彼はそう言うと、鞄から絆創膏を取り出して、私に手渡した。その手際の良さは、おそらく普段から誰かのために、そうしているからなのだろう。
「お名前は……」
「あ、俺はいいです。それじゃ!」
彼は名前も告げずに、人混みの中へと消えていった。手元に残された、キャラクターものの絆創膏と、少しだけ土で汚れた彼のハンカチ。それらが、彼が確かに存在した証だった。
その時、私は初めて知ったのだ。見返りを一切求めない、純粋な善意というものが、この世には存在するということを。そして、その温かさに、私の心は一瞬で奪われてしまった。
彼が、同じ高校の、同じ学年の生徒だと知ったのは、その数日後のことだった。彼の名前は、藍月湊。クラスは違うけれど、廊下ですれ違うたびに、私は目で彼を追うようになった。
彼は、やはりどこにいても彼だった。重い荷物を持つ女子生徒がいれば、当たり前のように手を貸す。先生に頼まれた雑用も、嫌な顔一つせずに引き受ける。誰かが困っていれば、自分のことを後回しにしてでも助けようとする。その一つ一つの行動が、私の心を強く惹きつけてやまなかった。
でも、彼の隣には、いつも太陽のように笑う少女がいた。響木詩織。彼の幼馴染で、そして、彼の恋人。二人が仲睦まじく話している姿を見るたびに、私の胸は針で刺されたように痛んだ。
諦めるしかなかった。私には、彼らの間に入る資格はない。だから、私は自分のこの燃えるような恋心に、分厚い氷の蓋をした。生徒会長という完璧な仮面を被り、誰にもこの気持ちを悟られないように。
ただ、遠くから彼を見守る。彼の優しさが、誰かを幸せにしている光景を、静かに見つめることしかできなかった。それは、甘くもあり、ひどく苦しい時間だった。
転機が訪れたのは、二年生の秋。文化祭の準備期間中のことだった。
私は、彼の優しさが、時に危ういほどの自己犠牲に基づいていることを知っていた。だから、クラスの女子たちが彼に群がり、その優しさを安易に消費している光景を見るのは、正直に言って不愉快だった。
そして、響木詩織。彼女は、彼の優しさを独り占めできる唯一の存在でありながら、その価値を全く理解していないように見えた。彼の献身を「当たり前」のものとして享受し、彼が他の誰かに優しくすることに、子供のような嫉妬心を燃やしている。その愚かさに、私は密かに苛立ちを覚えていた。
ある日、私は見てしまった。響木詩織が、クラスの軽薄な男、炎堂隼人に声をかけているところを。その時の彼女の表情と、その後の二人の様子から、私は彼女の企みを瞬時に見抜いた。
「……愚かな」
思わず、そう呟いていた。彼女は、藍月くんの気持ちを試すために、嫉妬させるために、そんな浅はかな芝居を打とうとしている。自分がどれほど危険な火遊びをしようとしているのか、分かっているのだろうか。
そして、同時に、私の心の奥底で、固く閉ざしていた氷の蓋が、ぴしりと音を立ててひび割れるのを感じた。
千載一遇の好機。
もし、彼女がその愚かな計画を実行し、自ら藍月くんを手放すようなことがあれば。その時は――。
私は、密かに動き始めた。生徒会の権限を使い、友人たちからの情報を集め、響木詩織と炎堂隼人の動向を監視させた。そして、彼らが二人で映画に行くという情報を掴んだ。
日曜日。私は、藍月くんと響木詩織が、いつもの公園で会う約束をしていることを突き止めていた。私は少し離れた場所から、息を殺してその時を待った。
やがて、響木詩織が現れ、彼に別れを告げた。遠くからでも、彼の表情が絶望に凍りつくのが分かった。しかし、彼は彼女を責めなかった。それどころか、涙をこらえ、彼女の幸せを願う言葉を口にした。
「……本当に、あなたはどこまでもお人好しなんですか」
その光景を見て、私は呆れると同時に、彼への愛おしさがさらに増していくのを感じた。彼のその優しさこそが、私が焦がれてやまないものなのだから。
さあ、舞台は整った。
主役が一人、愚かな過ちによって舞台から降りた。
ここからは、私の番だ。
この日のために、私は完璧な戦略を練り上げていた。
第一段階:彼の心の隙間に入り込み、私の存在を強く印象付ける。
月曜日の朝、学校中が彼らの破局の噂で持ちきりになることは予測済みだった。私は、あえてその喧騒の中心に、自ら飛び込んだ。
「藍月湊くん。あなたに、話があります」
全校生徒の憧れの的である私が、ただの一般生徒である彼に、個人的に接触する。これ以上のインパクトはないだろう。生徒会室に二人きりという状況を作り出し、私は長年秘めてきた想いを、ストレートに彼にぶつけた。
「私のことがずっと好きでした」
「私と付き合っていただけませんか」
彼の混乱しきった顔は、非常に愛らしかった。もちろん、彼がすぐに頷くとは思っていない。だからこそ、ここで決定的な一手を打つ。
「響木さん、あなたに嘘をつきましたよね?」
私が真相を知っていることを仄めかし、彼の心を揺さぶる。彼が響木詩織に対して抱いていた純粋な想いを、「裏切り」という形で汚し、私の方へと引き寄せる。残酷な手だと分かっている。でも、恋は戦い。手段は選んでいられない。
第二段階:物理的に彼を囲い込み、ライバルの接近を徹底的に排除する。
昼休み、放課後。私はあらゆる時間を使って、彼の隣を確保した。手作りの弁当、生徒会の仕事という口実。周囲には「生徒会長が藍月湊に猛アタックしている」という状況を既成事実化させる。
そして何より重要なのは、響木詩織を彼に近づけないこと。彼女が彼に接触しようとするタイミング、場所、その全てを私は予測し、先回りして阻止した。彼女の罪悪感と焦燥感を煽り、正常な判断ができないように追い詰めていく。
全ては、私の計算通りに進んでいった。彼は、私の積極的なアプローチに戸惑いながらも、少しずつ心を開いてくれているのが分かった。彼の笑顔が、私に向けられる時間が増えていく。その一つ一つが、私の心を幸福で満たした。
そして、運命の金曜日。
私は、響木詩織が今日、最後の勝負に出てくることを読んでいた。だからこそ、あえて会議を理由に、湊を一人にした。彼女に、最後のチャンスを与えてやったのだ。
もちろん、それも私の計算の内。
私は会議を早々に切り上げ、彼らがいるであろう屋上へと向かった。ドアの隙間から、中の様子を窺う。響木詩織が泣きながら真相を告白し、彼がそれを冷たく突き放す声が聞こえてきた。
「もう、君の言葉を信じることができないよ」
彼のその言葉を聞いた瞬間、私は勝利を確信した。
さあ、フィナーレだ。
私は完璧なタイミングでドアを開け、彼の前に現れた。そして、絶望する響木詩織を完全に無視し、彼にだけ手を差し伸べる。
「さあ、行きましょう。過去に囚われている時間はありませんよ」
彼が、ためらいながらも私の手を取ってくれた、あの瞬間。私の長年の恋が、ようやく報われた瞬間だった。心臓が歓喜に打ち震え、泣き出してしまいそうになるのを、必死に堪えた。
すれ違いざま、私は響木詩織に、心からの「感謝」を伝えた。
「――ありがとう、響木さん。あなたが彼を手放してくれたおかげです」
哀れな敗者への、ささやかな手向けだ。
彼と手を繋いで歩く廊下は、いつも見ていた景色のはずなのに、全く違う世界のように輝いて見えた。
藍月湊。
あなたは、私が初めて見つけた、私の宝物。
入学式の日に、私の傷に絆創膏を貼ってくれた、不器用で優しい、私の王子様。
響木さんが手放したその手を、今度は私が、絶対に、永遠に、離さない。
私の完璧な恋の戦略は、今、ここに成就した。
これから始まる、彼との甘い未来を思い描き、私の口元には、自然と笑みが浮かんでいた。