第6話 サイドストーリー:王と大司祭は密かに憂う
勇者一行が王都を旅立ってから、およそ一月が過ぎた頃。
私、アークライト国王アルフォンス三世は、執務室に神殿の大司祭エウゲニウスを密かに招き入れていた。議題は、ただ一つ。先日、勇者テル殿から飛翔便で届けられた、一通の書簡についてである。
「……して、大司祭。これをどう思われるかな」
私が重々しく問いかけると、大司祭は手にした書簡に再び目を落とし、その長い白髭をしごきながら、深く長いため息をついた。
書簡には、道中の魔物との戦闘における輝かしい戦果が、若者らしい自信に満ちた筆跡で綴られていた。そこまでは良い。問題は、その追伸部分だ。
『追伸:聖女リリアンヌ様とは、日々愛を育んでおります。魔王討伐の暁には、褒賞として彼女を我が妻として賜りたく、何卒ご高配のほどお願い申し上げます』
「……若さ、ですな。英雄の色恋沙汰は、物語にはつきものにございます」
「そうであろうか。私には、どうにも一方的な情熱のように思えてならんのだが」
私の言葉に、大司祭はこめかみを指で揉みながら、さらに深い溜息を重ねた。
「陛下のご慧眼の通りかと。おそらくは、勇者殿の一方的な想いでありましょう。問題は、その想いの強さと、相手があの聖女様であるという点にございます」
相手があの聖女様、という言葉に、私も思わず顔をしかめる。
聖女リリアンヌ・フォン・クロイツェル。
彼女が辺境の村から神殿に迎え入れられたのは、今から二年前のこと。当時、神殿に設置されていた神聖力の観測装置が、これまで記録にないほどの凄まじい反応を示したのが始まりだった。まるで、空に太陽が二つ現れたかのような、圧倒的なエネルギーの奔流。調査の結果、その源が辺境の村に住む一人の少女であることが判明した。
それが、リリアンヌ様だった。
彼女が持つ神聖力量は、まさに奇跡。歴代のどの聖女をも遥かに凌駕する、神々の御業としか言いようのないものだ。彼女の存在こそが、魔王という絶望に対する、我ら人類の唯一の希望であった。
だからこそ、我々は彼女を丁重に、しかし半ば強制的に神殿へと迎え入れたのだ。
「確かに、リリアンヌ様は……常の娘御とは、ちと違う。あの透き通るような紫の瞳は、時折、こちらの魂の奥底まで見透かしているかのように感じられることがある」
「左様。あれは、ただ神に仕える乙女の瞳ではございません。感情というものが、まるで抜け落ちておられるかのよう。それでいて、その身に宿す力は、我々の想像を絶する」
大司祭の声には、畏怖の色が濃く滲んでいた。
「神殿に迎え入れた当初、彼女の力を正確に測ろうと、古の魔道具をいくつか試しました。しかし、結果は全て同じ。針が振り切れるか、魔道具そのものが許容量を超えて砕け散るか。我々が観測できているのは、あの御方が持つ力の、ほんの表層に過ぎないのかもしれませぬ」
その言葉に、私は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
つまり、我々は規格外の力を持つ存在の機嫌を損ねないよう、細心の注意を払わなければならない、ということだ。
「……勇者殿には、なんと返事を書くべきか。下手に断れば、魔王討伐への士気に関わるやもしれん」
「かといって、安易に許可もできませぬ。聖女様ご本人の御心ひとつで、我々の首が飛ぶどころの話では済まなくなる可能性すら、ございます」
我々は顔を見合わせ、揃って頭を抱えた。世界を救う力を持つ勇者と、世界を滅ぼすことすら可能かもしれぬ力を持つ聖女。その間で板挟みになる我々の心労など、一体誰が理解してくれるというのか。
結局、我々はその日、「まずは魔王討V伐に専念されよ」という、当たり障りのない文面を送ることで、問題の先送りを決めたのだった。
***
それから数ヶ月、勇者一行の旅は驚くほど順調に進んでいた。各地から届く報告は、勇者テルの武勇伝と、それを支える聖女の奇跡的な治癒の力を見事に示していた。
だが、それに比例して、勇者殿から届く書簡の内容は、ますます熱烈かつストレートなものになっていった。
『先日の戦いで、リリアンヌちゃんを庇って深手を負いましたが、彼女の愛の力で一瞬で回復しました! やはり我々は運命の赤い糸で結ばれているのです!』
『褒賞の件、前向きにご検討いただけていると信じております。金銀財宝も領地も位も不要です。私が望むのは、ただリリアンヌちゃん、その人のみ!』
私は、執務室の机に突っ伏した。隣では、大司祭が胃のあたりを押さえながら、青い顔で天井を仰いでいる。
「……大司祭。これは、もうどうにも止まらんな」
「ええ……もはや恋は盲目、という領域を遥かに超えておられます。勇者殿の中では、聖女様との結婚は、魔王討伐とセットの既定路線となってしまっているご様子」
「断ればどうなる? 最悪、へそを曲げて『魔王討伐はやめた』などと言い出しかねんぞ、あの若者なら」
「ですが陛下、事はそう単純ではございません。先日、旅先の街から神殿に送られてきた報告によりますと……」
大司祭は、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。それは、一行を密かに監視させている神官からの定期報告書だった。
「勇者殿が、街で高価な首飾りを買い、聖女様に贈った、と。しかし、聖女様はそれを一度も身につけることなく、荷物の奥にしまい込まれたそうです」
「……つまり、脈なし、ということか」
「脈なし、どころの話では。報告によれば、聖女様は勇者殿と話す時、常に完璧な『神殿用の笑顔』を浮かべておられる、と。それは、相手との間に分厚い壁を作り、決して内側に入らせないという、強い拒絶の意思表示に他なりませぬ」
私は、即位の儀式の際に見た、リリアンヌ様のあの人形のように美しい、完璧な微笑みを思い出した。あれが、拒絶の意思表示。言われてみれば、確かにそうだ。あれは、親しき者に向ける笑顔ではない。踏み込んではならない領域を示す、警告灯のようなものだ。
「大司祭よ。率直に聞くが、もし、万が一、聖女様が本気で怒り、その力を解放されたら、どうなる?」
私の問いに、大司祭はしばらく沈黙した後、震える声で答えた。
「……分かりませぬ。神殿の最古の文献を紐解いても、あれほどの神聖力量を持った個人の記録は、どこにも存在しないのです。奇跡を起こす力は、ややもすれば災厄を呼ぶ力と表裏一体。我々は、神の御使いではなく、眠れる竜の隣で暮らしているようなものなのかもしれませぬな。下手に刺激すれば、この国一つ、一夜で焦土と化すやも……」
もはや、冷や汗が止まらなかった。
我々はとんでもない爆弾を抱え込んでしまったのだ。勇者の機嫌も損ねず、聖女の逆鱗にも触れない。そんな綱渡り、どうすれば可能なのか。
「……返事は、これまで通り、曖昧にぼかすしかないな」
「……左様ですな。すべては、魔王討伐の後に。今はただ、勇者殿のご武運と、そして何より、聖女様のご機嫌を損ねないことを、神に祈るほかありますまい」
もはや、我々にできることは、祈ることだけだった。一国の王と、神殿の最高指導者が、揃って神頼みとは、笑うに笑えない状況だった。
***
そして、運命の日がやってきた。魔王討伐の報が、王都を歓喜の渦に叩き込んだ。
私は民衆と共に英雄の凱旋を祝いながらも、内心ではこれから起こるであろう厄災に戦々恐々としていた。
祝宴の前に勇者殿を呼び出し、彼の最後の願いを聞いた時、私の腹は決まっていた。ここで拒絶して、世界を救った英雄に泥を塗るわけにはいかない。それに、もはや何を言っても無駄だろう。
「……承知した」と告げた時の、勇者殿のあの歓喜に満ちた顔。そして、その裏で、大司祭と交わした絶望的な視線。私は、あの瞬間を生涯忘れないだろう。
後は、リリアンヌ様が、この茶番にどう決着をつけるか。それを見届けるしかない。
そして、事件は起こった。
祝宴の最中、バルコニーの方から凄まじい破壊音が響き渡ったのだ。衛兵たちが駆けつけると、そこには石壁に叩きつけられ、血塗れで気を失った勇者殿と、砕け散った壁の残骸だけがあった。
聖女リリアンヌ様の姿は、どこにもなかった。
衛兵たちの報告は、信じ難いものだった。曰く、バルコニーに駆けつけた時、聖女様は淡い光に包まれ、そのまま掻き消すように姿を消した、と。
私は、再び大司祭と二人きりで、静まり返った執務室にいた。窓の外では、まだ祝宴の余韻が続いているが、我々の心は嵐が過ぎ去った後のように、静まり返っていた。
「……やはり、人ならざるもの、でしたな」
大司祭が、力なく呟いた。
「『転移』、か。空間を捻じ曲げて瞬時に移動する、伝説級の魔法だ。神話の時代の魔術師か、あるいは神々自身にしか使えぬとされていたが……」
「彼女は、それをいとも容易くやってのけた、というわけか。勇者殿を、あの屈強な若者を、紙切れのように吹き飛ばした上で」
私は、バルコニーの惨状を写した魔法鏡を見つめた。まるで巨神の一撃を受けたかのように、城壁が大きく抉られている。あれを、あの華奢な少女が、片手で?
「……勇者殿は、どうしている」
「幸い、命に別状はないご様子。ただ、全身骨折の重傷です。それ以上に、心の傷が……。意識を取り戻して以来、一言も口を利かず、ただ虚空を見つめておられる、と」
その報告に、私は同情を禁じ得なかった。彼もまた、若さゆえの過ちを犯したに過ぎない。ただ、相手が悪すぎた。あまりにも、悪すぎたのだ。
私は、ふう、と大きく息を吐いた。それは、この数ヶ月、ずっと胸につかえていた鉛のようなものが、ようやく取り除かれた、安堵のため息だった。
「……やれやれ、だな」
私の呟きに、大司祭もまた、深く、深く頷いた。
「……左様ですな。全くもって、やれやれ、でございます」
我々は、どちらからともなく、乾いた笑みを浮かべた。
勇者殿には心から申し訳ないと思う。だが、国を、世界を預かる者として、これほど安堵したことはない。
最大の懸案事項だった、聖女という名の規格外の爆弾が、自ら去ってくれたのだ。これ以上の解決策があっただろうか。いや、ない。
これは、我々にとって、望みうる限り最高の結末だったのだ。
「大司祭。公式見解を発表するぞ」
「はっ。いかがいたしますか」
「『聖女リリアンヌ様は、魔王討伐という大いなる使命を終え、我ら人間の手から離れ、再び天上の神々の元へと、お還りになった』。これでいこう」
「……御意。それが、最も波風の立たない落としどころかと」
我々は、この国の歴史に、新たな一ページを刻むことを決めた。それは、一人の若者の失恋を、神聖な物語へと昇華させる、権力者たちのささやかな、そして最後の仕事だった。
落ち込む勇者の顔を思い浮かべ、少しだけ胸を痛めながらも、私はどこまでも晴れやかな心で、夜が明けた王都の空を見上げていた。