第10話 サイドストーリー:魔王の嘲笑、瓦解した人間の盤上と不可侵の聖域
大陸の最南端、焦熱の荒野の奥深くにそびえ立つ魔王城。天を衝く黒曜石の尖塔は常に分厚い雷雲に覆われ、周囲には煮えたぎるマグマの河が堀のように流れている。この世界のあらゆる負の魔力が集束するその玉座の間で、私、魔王ゼノンは退屈そうに頬杖をついていた。
玉座の間の巨大な空間には、私の配下である魔王軍の最高幹部たちが集結し、片膝をついて首を垂れていた。獣人の姿をした猛将、青白い肌を持つ吸血鬼の策士、そして影の中に溶け込む暗殺鬼。彼らは皆、かつて人間たちを恐怖のどん底に陥れた強大な力を持つ魔将たちである。だが、現在彼らから報告される戦況は、私の予想を遥かに下回る、あまりにも拍子抜けするものばかりであった。
「……ゼノン様。東部戦線における人間の第一騎士団は完全に崩壊いたしました。我が軍の先鋒部隊のみで、敵の防衛線を三十ロメイルも押し下げることに成功。王都の絶対防衛圏内への侵入は、もはや時間の問題かと」
吸血鬼の策士、アルカードが恭しく報告する。彼の口調には喜びよりも、むしろ困惑の色が濃く滲んでいた。
「ふむ。見事な進軍ではあるが……アルカードよ。お前は何か腑に落ちないことがあるような顔をしているな」
「御意に。……あまりにも、脆すぎるのです」
アルカードは眉をひそめ、言葉を選びながら続けた。
「人間の王都防衛線は、堅牢な城塞と精鋭部隊で構成されているはずでした。何より、そこにはあの『勇者』が同行していたという報告を受けておりました。我々は勇者の強大な魔法と伝説の武具による激しい抵抗を想定し、第一軍団を使い捨てる覚悟で送り込んだのです。しかし……」
「しかし、何だ?」
「勇者は、我が軍のオーク部隊が突撃した際、自ら陣形を崩してパニックに陥り……あろうことか、同行していた修道女をオークの前に突き飛ばし、それを盾にして戦場から逃亡したのです。広範囲殲滅魔法の詠唱すらまともに完了させず、ただ喚き散らしながら背を向けて逃げ去りました」
その報告を聞き、玉座の間に集まっていた他の魔将たちからも、信じられないというようなざわめきが起きた。
「勇者が逃げただと? 味方の女を盾にしてか?」
獣人の猛将、ガランが鼻を鳴らして立ち上がった。
「馬鹿なことを言うな、アルカード。あの勇者ガレスは、確かに傲慢で単細胞な男だが、己の力への絶対的な自信から決して退くことを知らない狂戦士だったはずだ。それが女を盾にして逃げるなど、何かの卑劣な罠ではないのか?」
「私も最初はそう疑いました。ですが、勇者が逃亡した後の騎士団は完全に烏合の衆と化し、為す術もなく蹂躙されました。罠を張るにしては、失った戦力があまりにも大きすぎます」
アルカードの返答に、ガランは腕組みをして唸った。私もまた、玉座の上で深く思案を巡らせた。
勇者ガレス。彼が初めて我が軍の前に姿を現した時のことは、今でも記憶に新しい。
伝説の武具に身を包み、膨大な魔力を惜しげもなく放出する姿は、確かに神に選ばれた英雄と呼ぶにふさわしい脅威だった。だが、魔王である私の目から見れば、彼の戦い方はあまりにも幼稚で無謀だった。防御を捨てて大技を連発するだけの、隙だらけの力任せな戦法。あのような男、魔将が束になってかかればすぐに首を取れるはずだった。
しかし、現実はそうはならなかった。勇者パーティとの戦闘において、我が軍は幾度も苦酸を舐めさせられてきた。
その理由は、勇者自身の力ではない。彼の背後と側面に存在した、二つの「異常な要素」のせいだ。
「……アルカード、ガラン。お前たちも幾度かあのパーティと干戈を交えたな。彼らの本当の厄介さが何であったか、覚えているか?」
私が静かに問いかけると、魔将たちは一様に苦々しい表情を浮かべた。
「ええ、痛いほど記憶しております」
アルカードが答える。
「あのパーティには、異常な治癒力を持つ『聖女』がおりました。どれほどの致命傷を与えようと、彼女の光が降り注げば、勇者は一瞬で全快して立ち上がってくる。底なしの魔力タンクのような女でした。彼女を先に潰そうにも、後方に陣取り、常にこちらの射程外を維持する絶妙な立ち回りをしていました」
「それに加えて、もう一人」
ガランが苛立たしげに牙を剥き出しにした。
「あの、小賢しい『戦士』だ。……特別な力を持たないただの人間だと侮っていましたが、奴は異常でした。我が輩の斧が勇者の死角を捉え、確実に首を刎ねようとしたその瞬間、必ず奴の剣が割り込んで軌道を逸らすのです。しかも、ただ防ぐのではない。こちらの体勢が崩れるギリギリのタイミングで反撃を入れ、嫌でも奴にヘイトを向けざるを得ないように仕向けてくる。我が軍の攻撃の九割は、あの地味な戦士によって無力化されていました」
二人の魔将の言葉に、私も頷いた。
そうなのだ。あの勇者パーティが脅威であった理由は、勇者の火力でもなければ、伝説の武器の鋭さでもない。
無謀に突っ込む勇者の死角を完璧にカバーし、敵の攻撃の軌道をすべて計算して逸らし続ける「戦士」という名の絶対の盾。そして、その戦士がカバーしきれなかったダメージを瞬時に無かったことにする「聖女」という名の無限の回復装置。
この三位一体のシステムが機能していたからこそ、彼らは魔王軍を次々と打ち破ることができたのだ。私は魔王として、あの戦士と聖女のコンビネーションに深い警戒心を抱いていた。いつか彼らがこの魔王城に辿り着いた時、私の最大の障壁となるのは間違いなくあの二人だと確信していたのだ。
だが、今のアルカードの報告によれば、勇者はただの臆病者になり下がっているという。
一体、彼らの間に何が起きたというのか。
「……ゼノン様。その件について、我が影の諜報部より確かな情報を持ち帰っております」
玉座の間の暗がりから、一人の小柄な魔族が進み出た。影と同化する能力を持つ、魔王直属の諜報部隊の長、シャドウだ。
「報告せよ、シャドウ。人間どもの間に、何が起きている」
「はっ。……信じ難いことですが、現在の勇者パーティは、すでに完全に崩壊しております。かの絶対の盾であった戦士はパーティを離脱し、無限の癒し手であった聖女もまた、それを追って行方をくらましました。現在の勇者の傍にいるのは、教会がでっち上げた魔力を持たないただの偽物の修道女です」
その報告を聞き、魔将たちの間に先ほど以上のどよめきが広がった。
「馬鹿な! あの鉄壁の布陣を、自ら崩したというのか!?」
「内部分裂だと? 一体何が原因だ!」
ガランたちが問い詰めると、シャドウは肩をすくめ、呆れたような声で答えた。
「原因は、勇者自身の『傲慢さ』と、人間たちの『愚かさ』です。……勇者は、己を守り抜いていた戦士の価値を全く理解しておらず、彼を見下し、冷遇し続けました。さらに勇者は聖女を己の所有物のように扱い、戦士との間を引き裂こうとしたのです。結果として、戦士は絶望して自ら姿を消し、戦士という心の支えを失った聖女もまた、勇者と教会を捨てて王都から逃亡しました。教会も王国も、戦士の重要性に気づかぬまま、彼らをあっさりと手放したのです」
シャドウの報告が終わると、玉座の間は深い静寂に包まれた。
魔将たちは互いの顔を見合わせ、自分たちが聞いた情報が果たして現実のものなのか、脳内で処理しきれていないようだった。
「……くっ」
やがて、私の口から微かな声が漏れた。
「ふふっ……はははははっ! あっはははははははっ!!」
私は腹を抱え、玉座から転げ落ちんばかりに大爆笑した。
あまりの可笑しさに涙が滲み、玉座の肘掛けを何度も叩いて笑い転げた。魔将たちは魔王の突然の狂乱に驚き、呆然と私を見上げている。
「傑作だ! ああ、なんという傑作だ人間ども! 素晴らしい喜劇を見せてくれる!」
私はひとしきり笑い転げた後、涙を拭いながら魔将たちを見下ろした。
「聞いたか、お前たち。我々がどれほど警戒し、どれほど恐れていた完璧なシステムを、奴らは『勇者の機嫌を損ねるから』というくだらない理由で、自分たちの手で木端微塵に粉砕してしまったのだぞ! 剣が勝手に『盾はいらない』と言い出し、王国も教会もそれに同調して盾を捨てたのだ! その結果、むき出しになった剣が敵の前に立って怯え上がり、偽物の鞘を盾にして逃げ惑っているというわけだ!」
「……なんという愚かさ。呆れて言葉もありませんな」
アルカードが深い溜め息をつきながら言った。
「我々が策を弄して彼らを分断する手間すら省けました。人間とは、己の目に見える華やかな力だけを盲信し、泥に塗れて基盤を支える者の価値を理解できない、致命的に欠陥のある生物だったのですね」
「その通りだ。奴らは自らの手で、勝利への唯一の希望の糸を断ち切ったのだ」
私は玉座に深く座り直し、口元に残る笑みを消して、冷徹な魔王の顔に戻った。
戦局は完全に決した。絶対の盾と癒しを失った勇者など、もはやその辺のオークと大差ない。王国の崩壊は、彼らが戦士カエルを見捨てたあの瞬間に確定していたのだ。
「シャドウよ。その、戦士と本物の聖女は今どこにいる?」
私が問うと、シャドウは一枚の地図を取り出し、大陸の最北端を指差した。
「北の辺境、深い雪と森に囲まれたオーエンという小さな村です。諜報員からの報告によれば、勇者が彼らを連れ戻そうと単身で村を襲撃したそうですが……戦士カエルと一騎打ちになり、一瞬で武装解除されて惨めに逃げ帰ってきたとのことです。現在、戦士と聖女はその村で夫婦として、静かに畑を耕して暮らしているようです」
「勇者を一瞬で武装解除したか。……やはりな。あの戦士の本当の恐ろしさは、守るべきものを背負った時にこそ発揮されるのだ」
私は顎を撫でながら、北の辺境の地に思いを馳せた。
「ゼノン様。いかがなさいますか」
ガランが血気盛んな声で進み出た。
「いくら王国を見限ったとはいえ、彼らがいずれ我が軍の脅威になる可能性はあります。今のうちに、北の辺境に精鋭部隊を差し向け、その村ごと戦士と聖女を焼き払ってしまいましょうか」
「愚か者。そんなことをすれば、自ら破滅を招くことになるぞ」
私が冷たく一喝すると、ガランはビクリと体を震わせて黙り込んだ。
「愛する者を守るために本気になったあの戦士と、彼を全力で支援する無尽蔵の聖女。この二人が揃っている場所に軍を差し向けるなど、眠れる狂竜の尾を踏みつけに行くようなものだ。どれほどの犠牲が出るか分かったものではない」
私は立ち上がり、魔将たちを見回して絶対の命令を下した。
「全軍に布告せよ。これより我が魔王軍は、人間たちの王都に向けて総攻撃を開始する。恐怖に怯える勇者もろとも、あの愚かな王国と教会を歴史から完全に消し去ってやれ。……ただし」
私は言葉を区切り、地図の北端、オーエン村周辺の領域を指で丸く囲った。
「この北の辺境一帯を『絶対不可侵領域』に指定する。我が軍の兵士は、いかなる理由があろうともこの領域に足を踏み入れることを禁ずる。もし間違って彼らの村に手を出し、あの戦士と聖女の静かな生活を脅かした者がいれば、私が直々にその者の魂を八つ裂きにして魔界の炎に焼べると思え」
「……御意に。真の英雄たちに、敬意と安息を」
アルカードが深く頭を下げ、他の魔将たちもそれに倣って一斉に平伏した。
彼らが人間のために再び剣を取ることは、絶対にない。人間国は彼らを裏切り、絶望の淵に追いやったのだ。彼らは今、自分たちだけのささやかな幸せを手に入れ、それを守るためだけに生きている。
ならば、魔王である私が彼らのその選択を尊重し、不可侵の聖域として保証してやろうではないか。それが、かつて我々を最も苦しめ、そして人間の愚かさによって歴史の闇に葬られた「真の強敵」に対する、私なりの最大限の礼儀というものだ。
「さあ、行け魔将たちよ。自らの手で首を絞めた哀れな人間どもに、魔界の絶望の調べを聴かせてやれ」
私の号令と共に、魔将たちは漆黒のオーラを纏いながら次々と玉座の間を飛び出していった。
遠く北の空。勇者でも聖女でもなくなった二人が、今日ものどかに笑い合っているであろうその空を思い浮かべながら、私は口元に三日月のような笑みを浮かべた。
人間たちの盤上はすでに瓦解した。残されたのは、彼らが自ら作り出した泥沼の結末と、誰にも侵されることのない辺境の聖域だけだ。
魔王城の尖塔に雷鳴が轟き、人間たちの終焉の幕開けを告げる巨大な進軍の足音が、焦熱の荒野を震わせ始めていた。