勇者と寄り添う聖女の背中を見て、俺は恋人を辞めた。手紙一通で消えた俺を、聖女様が血眼になって追っているなんて冗談だろ?

第3話 静寂の辺境と、癒えない傷

王都から馬車を乗り継ぎ、さらに徒歩で険しい山を幾つも越えた先にある、大陸最北端の開拓村・オーエン。切り立った山々と深い針葉樹の森に囲まれたこの小さな集落が、今の俺の居場所だった。
気候は一年を通して冷涼で、冬になれば深い雪に閉ざされる厳しい土地だ。華やかな王都の喧騒も、勇者パーティの威光も、教会が声高に叫ぶ世界平和の祈りも、この辺境までは届かない。村民たちはその日を生き抜くための過酷な労働に必死で、遠い南の地で誰が魔王と戦っているのかなど、誰も気にかけてはいなかった。俺にとっては、自分の過去を捨て去り、誰の記憶にも残らずに消えるには、まさに理想的な隠れ家だった。

俺はここで「アッシュ」という偽名を名乗り、木こりや狩人の真似事をして日銭を稼いでいる。
霜の降りた冷たい朝の空気を吸い込み、重い鉄の斧を振り上げる。分厚い樹皮に向かって、全身の体重を乗せて刃を叩き込む。硬い木を削る鈍い音が森に響き渡り、手にビリビリとした痺れが伝わってくる。その単純な反復作業が、今の俺には救いだった。
額から汗が滴り落ち、筋肉が悲鳴を上げる。肉体を限界まで酷使している間だけは、脳内に巣食う真っ黒な感情や、あの忌まわしい夜の光景を忘れることができた。
かつては愛する人を守るために振るっていた剣は、今は部屋の片隅に布でぐるぐる巻きにされ、放置されている。誰かのために戦う理由を失った俺には、もう武器を握る資格も意味もなかった。

「おーい、アッシュ。精が出るな。だが、その辺にしておけ。木を全部切り倒す気か?」

背後から嗄れた声が響き、俺は斧を下ろして額の汗を拭った。
切り株に腰掛け、杖をつきながらこちらを見ているのは、この村で俺の数少ない顔見知りである老人、シドだった。深い皺の刻まれた顔に、白く混じった無精髭。右足の膝から下が義足になっており、歩くたびにカツカツと独特の音を立てる。
俺がこの村に流れ着き、吹雪の中で行き倒れかけていたところを拾ってくれたのがこのシドだった。村のはずれにあるボロボロの空き家をあてがってくれたのも彼だ。

「……シドさん。まだノルマの半分も終わっていませんよ」
「お前さんのノルマの基準がおかしいんだよ。普通の木こりの三日分を半日で終わらせてどうする。あまり森の神様を怒らせるもんじゃない。ほれ、休憩だ。少し休め」

シドはそう言って、懐から革袋を取り出し、俺に向かって放り投げた。受け取ると、中には水で薄めた安酒が入っていた。
ありがたく一口飲むと、喉の奥が焼けるように熱くなった。冷え切った体が内側から温まっていくのを感じながら、俺は斧を地面に置き、倒木の上に腰を下ろした。

「相変わらず、何かに追われているような顔をして木を叩いとるな、お前さんは」
「別に、そんなつもりはありません。ただ、働かないと飯が食えないだけです」
「嘘をつけ。飯を食うだけなら、そんな死に物狂いで斧を振るう必要はねえ。お前さんの目は、まるで自分自身を罰しているような目をしている」

シドの鋭い指摘に、俺は押し黙った。この老人は元々、王国の国境警備隊で小隊長を務めていた元兵士だという。長年、過酷な戦場と人間の裏の顔を見てきたせいか、俺が抱えている底知れない絶望の匂いを、最初から嗅ぎ取っていた。だが、シドは決して俺の過去を深く詮索しようとはしなかった。それが、俺がこの村でシドとだけは言葉を交わせる理由でもあった。

「……気にしすぎですよ、シドさん」
「そういうことにしておいてやろう。だがな、アッシュ。村の若い衆や娘たちには、もう少し愛想良くしてやれ。特に、宿屋の娘のミーナだ。あの子、お前さんに気があるぞ」

ミーナという名前を聞いた瞬間、俺の心臓の奥底で、冷たく硬いものがカチンと音を立てた。
ミーナは村の宿屋で働く、赤毛の快活な娘だ。俺が村に来てからというもの、何かと理由をつけては声をかけてきたり、余ったパンやスープを差し入れてきたりする。彼女の態度は、誰の目から見ても明らかな好意だった。
だが、俺はその好意を受け取ることができなかった。いや、受け取るのが恐ろしかったのだ。

「俺にはそんな資格はありません。それに、誰かと親しくなるつもりもありません」
「堅物だねえ。あんな可愛い娘が毎日気にかけてくれてるってのに。お前さん、女にひどい裏切られ方でもしたのか?」

シドの何気ない言葉が、俺の心の古傷を鋭く抉った。
王都の暗い路地裏。月の光。傲慢な勇者の腕に抱かれ、彼に身を委ねる銀髪の少女。

『これは聖女としての務めなの』

甘ったるい彼女の声が、脳裏にフラッシュバックする。
呼吸が浅くなり、指先が微かに震え始める。俺は慌てて革袋の酒をあおり、その記憶を強引に喉の奥へと流し込んだ。

「……裏切られたわけじゃありません。俺が、勝手に勘違いして、勝手に期待していただけです。俺みたいな人間に、誰かが無条件で好意を向けるなんてあり得ない。もしあるとしたら、それは何か別の目的があるか、あるいは自分の都合のいいように利用するための『義務』でしかないんです」
「ひねくれているな。ミーナの好意も、裏があるって言うのか?」
「わかりません。でも、もう誰かを信じて、期待して、裏切られるのはたくさんなんです。俺はもう、誰の心も覗きたくない」

俺の拒絶の言葉に、シドは小さくため息をついた。
俺はミーナに対して、意図的に冷たく接していた。彼女が焼きたてのパンを持ってきてくれても、「施しは受けない」と突き返した。彼女が心配そうに怪我の手当てを申し出ても、「触るな」と怒鳴りつけて追い払った。
彼女が悲しそうに目を伏せるたびに、胸が痛んだ。だが、同時に「これでいいんだ」という歪んだ安堵感もあった。
優しくされればされるほど、その裏にあるかもしれない嘘や打算を疑ってしまう。彼女が俺に笑いかけるのは、ただの気まぐれではないのか。いつか、あのエララのように、俺よりも条件のいい男が現れたら、あっさりと俺を見捨てるのではないか。
そんな猜疑心が泥水のように心を濁らせ、俺は女性という存在そのものを恐れるようになっていた。防衛本能という名の分厚い殻に引きこもり、誰も俺に触れられないように、全身に棘を逆立てている。それが今の俺の生きる術だった。

その日の夜。
粗末な小屋に戻った俺は、暖炉に火をくべ、床に敷かれた薄い毛布の上に寝転がった。
風が窓枠をガタガタと揺らし、外からは遠くで狼の遠吠えが聞こえてくる。圧倒的な静寂と孤独が、冷たい水のように部屋を満たしていく。
一人になると、どうしても思考が過去へと引き戻されてしまう。
エララは今頃、どうしているだろうか。
俺が消えた後、彼女はさぞかしせいせいしているだろう。もう邪魔な幼馴染の存在を気にすることなく、堂々と勇者の隣で聖女としての務めを果たしているはずだ。華やかな王都の光の中で、皆から称賛を浴びながら、勇者と共に世界を救う旅を続けているのだろう。
そこに、俺の居場所は最初からなかったのだ。

「……馬鹿だな、俺は」

自嘲気味に呟き、目を閉じる。
忘れようとしているのに、彼女への未練が完全には断ち切れていない自分に吐き気がする。
共に泥だらけになって遊んだ幼い日の記憶。俺が初めて剣の試合で勝った時、自分のことのように泣いて喜んでくれた彼女の顔。そして、出立の前夜、月明かりの下で交わした不器用なキス。
あの時の彼女の温もりは、どうしようもなく本物だったと思いたい自分がいる。だが、その直後にあの裏切りの光景がフラッシュバックし、俺の心をズタズタに引き裂いていくのだ。
信じたい。信じられない。愛している。憎らしい。
矛盾する感情が渦を巻き、俺は毎晩のように浅い眠りと悪夢にうなされる日々を送っていた。

数日後、大雪が降った夜のことだった。
吹雪で外に出られず、俺はシドの家に呼ばれて、二人で囲炉裏を挟んで酒を飲んでいた。
外の猛吹雪の音をかき消すように、パチパチと薪が爆ぜる音が室内に響いている。

「アッシュ。お前さん、いつまでここでこうしているつもりだ?」

赤く燃える火を見つめながら、シドが唐突に尋ねてきた。
俺は酒の入った木杯を口に運んだまま、動きを止めた。

「いつまでって……ずっとですよ。俺には帰る場所なんてありませんから」
「強がるな。お前さんのような若い男が、こんな最果ての村で一生木を切り続けて終わるなんて、普通じゃねえ。何かから逃げているんだろう」
「逃げているわけじゃない。ただ、諦めたんです」

俺の言葉に、シドは義足の右足をぽんと叩いた。

「俺もな、若い頃はお前さんと同じような目をしていた時期があった。信じていた上官に背後から撃たれ、部下を全員見殺しにされた。その時にこの足も失った。国も、仲間も、何もかも信じられなくなって、酒に溺れて死にかけていた」

シドの重い過去の告白に、俺は息を呑んだ。いつも冗談ばかり言っているこの老人に、そんな壮絶な過去があったとは知らなかった。

「人間ってのはな、一度信じていたものに裏切られると、心がひどく怯えるようになる。二度と同じ痛みを味わいたくないから、最初から何も信じないようにバリアを張るんだ。お前さんが村の娘を遠ざけるのも、結局は自分が傷つくのが怖いからだろ?」

図星を突かれ、俺は奥歯を強く噛み締めた。

「……得ようとするから、奪われた時に絶望するんです。信じるから、裏切られた時に心が壊れる。だったら、最初から何もない方がマシだ。誰のことも信じなければ、もう傷つくことはない」

俺の反論を聞いて、シドは静かに首を振った。

「それは違うぞ、アッシュ。信じないということは、何も失わない代わりに、何も得られないということだ。お前さんは今、傷つくことを恐れるあまり、自分自身の心を氷漬けにして殺そうとしている。だがな、心まで凍りつかせちまったら、本当の温もりに触れた時にも、それを感じることができなくなっちまうんだぞ」
「温もりなんて、俺には必要ありません」

俺が冷たく言い放つと、シドは少し悲しそうな目をして、酒杯を干した。

「今はそれでいい。傷が深すぎるうちは、無理に誰かを信じる必要はねえ。休めばいいさ。だがな、アッシュ。俺にはわかる。お前さんの目は、絶望に染まりきっちゃいない。心の奥底では、まだ誰かを信じたい、誰かに信じてもらいたいと泣き叫んでいるんだ」

シドの言葉が、胸の奥の最も柔らかい部分に突き刺さった。
否定したかった。そんな未練がましい感情は、とうの昔に捨て去ったはずだと。
だが、口を開こうとしても、声が出なかった。囲炉裏の火がやけに滲んで見える。俺は俯き、自分の膝の上に置いた震える手を、ただじっと見つめることしかできなかった。

静寂の辺境の村。雪に閉ざされたこの場所で、俺は凍てついた心を抱えたまま、出口のない迷路を彷徨い続けていた。
癒えない傷を抱え、女性を恐れ、孤独に閉じこもる日々。
この深い雪が溶ける日が来るのか、俺には全くわからなかった。だが、シドの言葉は確実に、俺の頑なな心に小さな波紋を広げていた。
自分が本当は何を望んでいるのか。その答えを見つけるのが怖くて、俺はただ、外の吹雪の音に耳を澄ませていた。