第2話 崩れ落ちた聖女の仮面
朝靄が立ち込める王都の宿屋。小鳥の囀りが窓越しに聞こえてくる穏やかな朝だったが、私の心は昨夜からずっと重く沈み込んだままだった。
洗面台の鏡に映る自分の顔は、酷く青ざめていた。聖女として世界中から讃えられる白銀の髪も、今はただ鬱陶しく感じるだけだ。冷たい水で顔を洗い、無理やり聖女としての表情を作る。完璧な微笑み、誰に対しても慈愛に満ちた態度。それが、私に課せられた「務め」だったから。
昨夜のことを思い出すと、胸の奥がチクリと痛む。
勇者ガレス様に呼び出され、人気のない路地裏へと連れ出された。彼はいつも通り傲慢で、私を自分の所有物であるかのように扱った。肩を抱き寄せられ、耳元で甘い言葉を囁かれる。正直に言えば、吐き気がするほど不快だった。彼から漂う強い香水の匂いも、私を見るねっとりとした視線も、すべてが苦痛でしかなかった。
それでも、私は彼を拒絶しなかった。いや、拒絶できなかったのだ。
『聖女は勇者に寄り添い、彼を精神的にも支えなければならない』
教会の司教から耳にタコができるほど聞かされてきた言葉が、呪いのように私を縛り付けていた。ガレス様は気性が荒く、機嫌を損ねればパーティ全体に悪影響を及ぼす。最悪の場合、彼が個人的に敵視しているカエルに矛先が向くかもしれない。
だから私は、波風を立てないことを選んだ。適当に相槌を打ち、彼の言葉を肯定し、従順な聖女のふりをしてやり過ごそうとした。彼に抱き寄せられた時も、ただ早く時間が過ぎることだけを祈って、身を固くして耐えていた。
すべては、愛するカエルを守るため。私たちの平穏な関係を維持するため。私はそう自分に言い聞かせていた。
「……カエルの顔を見に行こう」
乾いたタオルで顔を拭き、私は自室を出た。
カエルの顔を見れば、この重苦しい気分も晴れるかもしれない。彼の実直で不器用な笑顔は、いつだって私の心を救ってくれた。彼がいなければ、私はとっくに聖女という重圧に押し潰されていたはずだ。
廊下を歩き、彼の部屋の前に立つ。軽くノックをしたが、返事はない。
まだ寝ているのだろうか。いつもならとっくに起きて、中庭で剣の素振りをしている時間なのに。
「カエル? 入るわよ」
そっとドアノブを回すと、鍵はかかっていなかった。軋む音を立てて扉が開く。
部屋の中に入った瞬間、違和感が全身を突き抜けた。
空気があまりにも冷たく、そして静かすぎたのだ。ベッドは綺麗に整えられており、シーツには皺一つない。部屋の隅にあったはずのカエルの粗末な背嚢と、彼がいつも手入れを怠らなかった長剣が消えていた。
胸の奥で、嫌な音が鳴った。ドクン、ドクンと心臓の鼓動が急激に早くなる。
「カエル……?」
声が震えた。部屋を見渡すと、殺風景な木製の机の中央に、一枚の羊皮紙が置かれているのが見えた。
私はふらつく足取りで机に近づき、その羊皮紙を手に取った。見慣れた、少し不格好で角張った文字。間違いなくカエルの筆跡だった。
嫌な予感が全身を支配する中、私は震える目で手紙の文面を追い始めた。
『エララへ。突然こんな形でパーティを去ることを許してほしい』
息が止まった。去る? カエルが、私を置いてどこかへ行ってしまった?
そんな馬鹿な。私たちは幼馴染で、ずっと一緒にいると約束したのに。彼が私を置いていくはずがない。何かの間違いだ。
しかし、続く文章が、私の淡い希望を無残に打ち砕いていった。
『最近の君を見ていて、俺はようやく自分の愚かさに気づくことができた。俺は、君が背負っている「聖女としての務め」の重さを、本当の意味で理解していなかった。君がどれだけ悩み、何を犠牲にして勇者ガレスに寄り添おうとしているのか。今日、路地裏での君たちの姿を見て、すべてを悟ったよ』
「ああ……っ」
手紙を持つ手が激しく震え、膝の力が抜けそうになった。
見られていた。昨夜、ガレス様に抱き寄せられ、彼に顔を埋めるようにして耐えていたあの無様な姿を、カエルに見られていたのだ。
違う。違うの、カエル。あれは愛なんかじゃない。ただの義務で、やり過ごすためだけの手段だったの。私の心はいつだってあなただけのものなのに。
心の中で必死に弁解するが、手紙の中のカエルにその声は届かない。
『君には、もっと相応しい場所がある。そして、相応しい相手がいる。俺のような実力のない戦士がいつまでも君の隣にいることは、君にとって邪魔でしかないのだろう。俺はもう、君の聖女としての務めを邪魔しない。自由に、君の信じる道を歩んでくれ。今までありがとう。どうか、お元気で』
手紙は、そこで終わっていた。
恨み言は一つも書かれていなかった。ただ、深い絶望と、静かな諦めだけがそこにはあった。
「嘘……嘘よ……」
羊皮紙が手から滑り落ち、床に落ちた。私はそのまま膝から崩れ落ち、冷たい石の床に両手をついた。
頭の中が真っ白になり、やがて、自分の犯した罪の大きさが津波のように押し寄せてきた。
私は、なんて愚かだったのだろう。
カエルを守るためだと言い訳をして、ガレス様に従っていた。波風を立てないことが最善だと信じていた。だが、それはただの「甘え」だったのだ。
聖女としての義務感という大義名分を隠れ蓑にして、自らガレス様を拒絶するという面倒な衝突から逃げていただけだった。私が曖昧な態度をとり続けたせいで、カエルがどれほど傷つき、一人で苦しんでいたか。
彼の自尊心を削り、不信感を募らせ、最後に決定的な絶望を与えたのは、他の誰でもない、私自身の「曖昧な優しさ」だった。
「ごめんなさい……カエル、ごめんなさい……っ!」
床に顔を押し当て、私は声を上げて泣き叫んだ。
涙が後から後から溢れ出し、視界をぐしゃぐしゃに歪めていく。心臓を素手で引き裂かれているような激痛が胸を襲う。
失って初めて気づいた。聖女という肩書きも、世界を救うという使命も、カエルが隣にいなければ何の意味も持たないのだということに。
彼がいない世界に、私にとっての救いなど存在しない。
「うわあぁぁぁっ! カエル……っ、カエル……っ!!」
喉が裂けるほどに彼の名前を呼んだ。だが、空虚な部屋には私の泣き声が反響するだけで、あの優しくて温かい声が返ってくることは二度となかった。
どれくらいそうして泣き伏していただろうか。
不意に、背後で荒々しい足音が響き、乱暴に扉が開け放たれる音がした。
「朝からうるさいぞ、エララ。一体どうしたというんだ」
不機嫌極まりない声。ガレス様だった。彼は眉間に皺を寄せ、床に這いつくばって泣いている私を見下ろしていた。
私は涙で霞む目を向けたまま、何も答えることができなかった。声の出し方すら忘れてしまったかのようだった。
ガレス様は舌打ちをすると、床に落ちていた手紙を拾い上げた。そして、無遠慮にその内容を読み始めた。
彼の視線が文字を追うにつれて、その口角がニヤリと吊り上がっていくのが見えた。
「はっ、なるほどな。あの無能な戦士、とうとう自分の身の程を悟って逃げ出したか」
ガレス様は手紙を丸めると、ゴミでも捨てるように床へ放り投げた。
「手間が省けたというものだ。いずれ俺の手で追放してやろうと思っていたが、自分から消えてくれるとはな。それにしても、あいつはお前の務めを勘違いして悲劇の主人公気取りか? 滑稽すぎて笑いが止まらん」
彼は腹を抱えて笑った。カエルの命を削るような苦悩と絶望を、一片の価値もないごみ屑のように笑い飛ばしたのだ。
その瞬間。
私の中で、これまで私を縛り付けていた分厚い鎖が、音を立てて砕け散るのを感じた。
教会の教え、世界を救う義務、勇者への絶対的な服従。それらすべてが、どうでもいい塵芥に思えた。
「さあ、泣くのはやめろ、エララ」
ガレス様は私の傍にしゃがみ込み、私の肩に手を伸ばしてきた。
「あんな雑魚のことは忘れろ。これで障害はなくなった。お前は心置きなく、俺だけのものになれるんだからな」
その手が私の肩に触れようとした、まさにその時だった。
「……触らないで」
地を這うような、低く冷たい声が自分の口から出た。
「あ?」
ガレス様が怪訝な顔をした瞬間、私の体から爆発的な魔力が解放された。
それは祈りや癒しのための神聖な魔力ではなく、純粋な拒絶と怒りに染まった、暴力的なまでの力だった。
「私に、二度と触らないで!!」
ドンッ!! という轟音と共に、凄まじい衝撃波が部屋を吹き荒れた。
「なっ……!?」
驚愕に見開かれたガレス様の体が、木の葉のように吹き飛ばされ、分厚い石の壁に激突した。壁に亀裂が入り、バラバラと石の欠片が崩れ落ちる。
「がっ……は……っ」
勇者である彼が、咳き込みながら床に膝をついた。彼は信じられないという顔で私を見上げた。
「き、貴様……勇者であるこの俺に向かって、何をするつもりだ……!」
私はゆっくりと立ち上がった。涙はもう枯れ果てていた。
冷え切った視線で、かつて私が恐れ、従っていた男を見下ろす。
「勇者? それが何ですか。あなたはただの、傲慢で下劣な男です」
「な、なんだと……っ! 聖女の分際で、俺を愚弄するのか!」
「私はもう、あなたの隣で人形を演じるのはやめました。聖女の務めなど、犬にでも食わせればいい」
私は言い放ち、ベッドの傍にあった自分の杖を手に取った。
もう迷いはなかった。私が本当に守るべきだったものは、世界でも、勇者の機嫌でもない。たった一人、私を愛し、私のために命を懸けてくれた、あの不器用な戦士だけだったのだ。
「エララ! どこへ行く気だ! 魔王討伐の旅はどうなる!」
立ち上がろうとするガレス様が怒鳴り声を上げるが、私は振り返らなかった。
「魔王でも何でも、あなた一人で倒せばいいでしょう。私には、探さなければならない人がいます」
部屋を飛び出し、廊下を駆け抜ける。
宿屋の主人や他の仲間たちが驚いた顔で私を見ていたが、何も気にならなかった。
ただ、カエルのことだけを考えていた。
手紙を残して去った彼が、どれほどの孤独と絶望を抱えているか。それを想像するだけで、胸が張り裂けそうになる。
追いつけるだろうか。私を許してくれるだろうか。
『君にはもっと相応しい相手がいる』
そんな馬鹿なことを言わないで。私にとって相応しいのは、私を本当に心の底から愛してくれたのは、世界中でカエル、あなただけだったのに。
宿屋の扉を押し開け、朝の冷たい空気の中へ飛び出す。
街の喧騒が広がり始めている。人々は、聖女が一人で血相を変えて走り出していく姿を見て道を開けた。
私は走り続けた。純白の聖女の法衣が泥に汚れようと、転んで膝から血が流れようと、構わなかった。
王都の巨大な門を抜け、果てしなく広がる街道を前にして、私は強く杖を握りしめた。
待っていて、カエル。
私がどれだけ愚かだったか、どれだけあなたを傷つけたか。何度でも謝る。這いつくばってでも許しを乞う。
あなたが私を拒絶するなら、それでも構わない。ただ、あなたの傍にいたい。
聖女という仮面を捨て、ただの幼馴染のエララとして、もう一度あなたに会いたい。
ボロボロになってもいい。世界中を敵に回してもいい。
私は必ず、あなたを見つけ出す。
その決意だけを胸に秘め、私は広大な世界へと、たった一人で足を踏み出した。