第2話
美咲が僕に「もう満足できない」と告げてから、僕の日常は音を立てて崩れ去った。僕の世界は、色を失い、音を失い、ただ灰色で静かなものになった。教室の窓から見える空は、以前と何も変わらないはずなのに、僕の目にはどこか澱んだ色に見えた。
美咲は、蓮の隣で、まるで自分が新しい世界の女王にでもなったかのように振る舞った。彼女の笑顔は以前よりも一層華やかになり、声はどこか響き渡るようで、それはまるで僕が知っていた美咲とは別人のようだった。クラスメイトたちも、美咲と蓮の関係をどこか羨望の眼差しで見ていた。彼らは、二人のきらびやかな世界に、吸い寄せられるように集まっていった。
僕の存在は、まるで最初からなかったかのように、周囲から認識されなくなった。美咲の隣にいた「お似合いのカップル」の片割れは、突然消え去り、その場所には、ただ虚しい空間だけが残された。以前なら「悠真、元気ないね、どうしたの?」と声をかけてくれる友人もいたかもしれない。けれど、僕には、美咲以外に深く心を通わせる友はいなかった。僕の孤独は、誰にも気づかれることなく、僕の心臓を締め付け続けた。
ある日、図書室で参考書を読んでいた時、隣の席で女子生徒たちがひそひそと話しているのが聞こえた。
「ねえ、美咲ちゃん、最近すっごく変わったよね」
「うん、蓮くんと付き合い始めてから、なんかオーラが違うっていうか」
「でもさ、悠真くん、可哀想だよね。幼馴染で恋人だったんでしょ? あんなに献身的だったのに」
「しょうがないよ、蓮くんは格が違うもん。悠真くんじゃ、美咲ちゃんには物足りないでしょ」
僕の耳に届く会話は、まるで僕の心情を嘲笑うかのようだった。僕が彼らに同情される対象になっていることに、どうしようもない惨めさがこみ上げた。僕は、彼女たちから逃げるように、その場を立ち去った。
僕は、美咲との思い出を脳裏から消し去ろうとした。けれど、それは不可能だった。幼い頃から積み重ねてきた記憶は、あまりにも深く、僕の心に根を張っていた。美咲が僕のために作ってくれたお弁当、二人で観に行った映画、初めて手をつないだ時のぎこちない温かさ。それらすべてが、今は鋭い刃となって、僕の心を切り裂く。
夜、自室のベッドで横たわると、天井の染みまでが美咲の顔に見えるようだった。眠れない夜は、美咲との未来を夢見ていた頃の自分を呪った。なぜ、僕は気づかなかったのだろう。美咲の心の奥底に、承認欲求という飢えが潜んでいたことに。なぜ、僕は、もっと、彼女を満足させてやれなかったのだろう。自己嫌悪の感情が、僕を容赦なく蝕んだ。
僕の学業成績はみるみるうちに落ちていった。以前は得意だったプログラミングの授業も、全く集中できない。画面に表示されるコードの羅列は、意味のない記号の集合体としか映らなかった。僕は、ただ呆然と、日々の時間が過ぎ去るのを待つだけの存在になっていた。
そんなある日の昼休み、僕は体育館裏のベンチで、一人ぼっちでパンをかじっていた。誰にも見られたくない。誰とも話したくない。そう思っていた時だった。
「悠真くん、ちょっといい?」
蓮の声が、僕の背後から聞こえた。僕は、反射的に身体を硬くした。振り向くと、蓮は嘲るような笑みを浮かべて、僕を見下ろしていた。
「美咲のことなんだけどさ」
蓮は、僕の前のベンチに、まるで自分の縄張りかのように座った。その動作には、一切の遠慮も迷いもなかった。
「彼女、最近ちょっと面倒くさいんだよね。重いっていうか」
僕は息を呑んだ。蓮の言葉が、何を意味するのか、すぐに理解できなかった。彼は、僕の困惑した表情を見て、さらに笑みを深めた。
「君との関係をぶっちぎってまで僕を選んだくせに、なんか勘違いしてるみたいでさ。僕が本気で彼女と付き合ってると思ってるんだろうね」
蓮は、まるで他人の噂話でもするかのようにつまらなそうに言った。僕の頭の中で、何かが弾ける音がした。
「どういう意味だ……?」
僕の声は、自分で思うよりもずっと掠れていた。
「そのままだよ。僕は彼女を『特別扱い』したわけじゃない。僕の周りには、ああいう承認欲求の強い女子はいくらでもいるからね。ちょっと褒めてやれば、すぐに手に入る。美咲も、その一人だったってこと」
蓮は、涼しい顔で、僕の目の前で残酷な事実を突きつけた。彼の瞳には、僕に対する嘲りと、美咲に対する侮蔑の色が宿っていた。
「ま、君は美咲に捨てられて可哀想だけど、結果的にはよかったんじゃない? あの子、面倒くさいよ」
蓮はそう言い残すと、あっさりと立ち上がり、僕に背を向けた。彼の言葉が、僕の脳裏で、何度も、何度も、反響する。
美咲は、蓮にとって、ただの遊び相手だった。
「特別扱い」されたわけではない。
「承認欲求の強い女子」の一人に過ぎなかった。
「面倒くさい」から、もういらない。
その事実に、僕は再び絶望の淵に突き落とされた。美咲が僕を裏切った挙句、蓮に捨てられた。それは、僕が美咲に抱いていたすべての感情を、一瞬で凍り付かせるほどの衝撃だった。
僕の心の中で、美咲に対する悲しみや未練が、別の感情に変わっていくのを感じた。それは、怒りでもなく、憎しみでもない。もっと、底冷えするような、虚無感だった。美咲は、自分の虚栄心のために、僕を裏切った。そして、その虚栄心を満たしてくれた相手に、あっさりと捨てられた。
僕は、美咲の存在を、心の奥底から切り離したいと思った。もう、彼女のことで、僕の心が揺れ動くのは御免だった。
その日から、僕は、美咲を見ても、何一つ感情が湧かなくなった。教室で蓮の隣に座る彼女を見ても、何も感じない。僕の心は、美咲という存在に対する感情を、すべて凍結させてしまったかのようだった。
僕の日常は、相変わらず灰色で、孤独なものだった。けれど、以前のような悲しみや絶望の淵に沈むことはなくなった。代わりに、僕の心には、冷たい静寂が訪れた。それは、嵐が去った後の、荒れ果てた大地のような静けさだった。
美咲の虚栄心が、僕の心を完全に壊した。そして、その壊れた心は、もう二度と、美咲のために動くことはないだろう。僕は、静かに、そう誓った。