第6話 (美咲視点)
あの日々、私は世界が私を中心に回っていると信じていた。悠真は、そんな私の隣にいつもいてくれる、当たり前の存在だった。朝、彼の家を過ぎると、もう角には彼が待っていて、二人で他愛ない話をしながら学校へ向かう。彼は私のことをいつも「美咲が一番」と言って大切にしてくれた。私が笑えば嬉しそうに微笑み、少しでも顔を曇らせれば、すぐに心配そうな顔で「どうしたの?」と声をかけてくれる。そんな悠真の存在は、私にとって心地よく、揺るぎない「安心」そのものだった。
私は、みんなの視線を集めるのが好きだった。クラスの中心で笑い、友人たちと盛り上がる瞬間が、私を一番輝かせているように思えた。悠真は、そんな私の隣で、決して出しゃばることなく、ただ見守ってくれる。私たち二人は、周りからも「お似合いのカップル」と称され、自然と将来を誓い合うような間柄になっていた。この穏やかな関係が、いつまでも続くのだと、心の底から信じていた。
けれど、心の奥底には、常に満たされない、小さな飢えがあったのも確かだ。この小さな世界だけでは、どこか物足りない。もっと華やかな場所で、もっと刺激的な出会いの中で、自分自身が誰よりも輝けるのではないか。そんな漠然とした憧れが、私の中でくすぶっていた。
そんな私の前に、蓮が現れた。彼は、学園のカリスマ的な生徒会長で、私とは違う種類の、圧倒的な光を放っていた。彼の言葉は聡明で、立ち居振る舞いは堂々としていて、彼の周りにはいつも、新しい情報と、まるで夢のような華やかな噂が飛び交っていた。蓮は、私が漠然と求めていた「もっと」を、現実のものにしてくれる存在のように見えた。
蓮は、私を特別に扱ってくれた。私の意見に耳を傾け、私の考えを「面白い」と褒め称え、私がどれほど才能に溢れているかを、まるで私自身よりも理解しているかのように語った。彼の視線は、私の承認欲求をこれ以上ないほどに満たし、私の中に眠っていた「もっと輝きたい」という渇望を、一気に覚醒させた。悠真の隣では感じることのなかった、新しい私、より価値のある私を、蓮は引き出してくれたのだと信じた。
悠真が、私に違和感を抱いていることは、薄々感じていた。彼が私を見つめる瞳に、かつてなかった不安の色が宿っていることにも。けれど、私はその視線から、意識的に目を逸らした。私は、蓮の隣で、もっと大きな舞台に立てるのだと確信していたから。悠真との関係は、あまりにも安定しすぎていて、私を新しい高みへ連れて行ってはくれない。そう、私は自分に言い聞かせた。
蓮との秘密の関係が始まったのは、自然な流れだった。彼といると、心が浮き立つような高揚感に包まれた。放課後、人目を忍んで会う時間は、私を特別で、背徳的な存在だと感じさせた。私たちは、互いの秘密を分かち合う、唯一無二の存在なのだと、そう思い込んでいた。
ある日の放課後、体育館の裏で蓮と二人きりでいるところを、悠真に見られた時、私は一瞬、心臓が凍り付くような罪悪感に襲われた。悠真の顔に浮かんだ絶望の色が、私の心を深くえぐった。けれど、その感情はすぐに、私の中に沸き上がる傲慢さによってかき消された。私はもう、後戻りできない場所に立っていた。
「悠真、どうしてここにいるの?」
私の声は、自分で思うよりもずっと冷たく、響いた。悠真は、震える声で蓮との関係を問い詰めた。彼の問いかけに、私は躊躇うことなく、用意していた言葉を突きつけた。
「あなたじゃ、もう満足できないの」
その言葉は、まるで鋭い刃物のように、悠真の心を切り裂いたはずだ。彼の顔から血の気が失せ、その場に立ち尽くす姿が、私の目に焼き付いた。私は、蓮の腕にすがった。蓮は、まるで私の勝利を認めるかのように、満足げに笑った。悠真の視界から、私を隠すように。私は、この選択が、私にとっての「正しい道」なのだと、自分自身に言い聞かせた。悠真の物足りない世界から、私はついに飛び出したのだと。
しかし、私が手にした「華やかな世界」は、あまりにも脆く、そしてはかなく崩れ去った。
蓮は、私を「特別」になど扱っていなかったのだ。彼の周りには、常に私のような「承認欲求の強い女子」が大勢いて、彼は、その中の誰をも手玉に取ることに長けていた。私が蓮との関係に酔いしれていた間にも、彼はすでに、別の女子に目を向けていたのだ。
「美咲? ああ、あの子ね。最近、ちょっと重くてさ」
ある日、偶然耳にした蓮の声は、私に対する侮蔑と、つまらなさが入り混じっていた。彼は、まるで使い古したおもちゃを捨てるかのように、あっさりと私を切り捨てた。その瞬間、私の頭の中で、何かが音を立てて砕け散った。
私を裏切った挙句、捨てられた。
その事実は、瞬く間に学園中に広まった。私の周りの空気は、一変した。かつて私に笑顔を向けていた友人たちは、私を見るたびに視線を逸らし、ひそひそと陰口を叩くようになった。
「自業自得だよね。あんなに悠真くんを傷つけたんだから」
「悠真くんを裏切ったんだから、当然の報いだよ」
彼らの言葉が、私の心臓を深く抉った。私の隣には誰もいなくなった。教室の隅で一人、昼食をとる私に、かつてのような輝きはもうなかった。華やかな日々は終わり、裏切り者として扱われる現実に、私は耐えきれなくなった。
その時になって初めて、私は悠真の存在の大きさに気づいた。彼は、どんな時も私を心から大切にしてくれていた。私のわがままを受け入れ、私がどんなに彼を軽んじても、変わらずにそこにいてくれた。彼の与えてくれた温かさは、蓮がくれた一瞬のきらめきとは違う、深く、確かなものだったのだ。
私は、絶望的な孤独の中で、悠真の誠実さを思い知った。彼が、私を唯一、本当に愛してくれていた人だったのだと。彼が、私にとって、どれほどかけがえのない存在だったのかを、すべてを失ってから、ようやく理解した。
もう一度、やり直したい。もう一度、あの頃のように、悠真の隣で笑いたい。
私は、最後の望みをかけて、図書室で勉強していた悠真の元へ向かった。彼の前に立つと、かつての私にはなかった、震えが止まらなかった。
「悠真……私、間違ってた。あの時、蓮くんのことばかり見てて……悠真のこと、全然見てなかった」
涙が、止まらなかった。私の頬を伝い、床に染みを作っていく。嗚咽を漏らしながら、私は必死に言葉を紡いだ。
「蓮くんは、私を、特別になんか扱ってなかった。ただの、遊び相手だった。それに気づかなかった私が、バカだったの」
悠真は、何も言わずに私の言葉を聞いていた。彼の瞳には、何の感情も宿っていなかった。それが、私の心をさらに締め付けた。
「お願い、悠真。もう一度、私を見てくれないかな? もう一度、やり直したいの。私、もう一度、悠真の隣で、あの頃みたいに笑いたい」
私は、彼の顔を見上げた。彼の瞳には、かつて私への深い愛情があったはずだ。縋るような私の懇願に、彼はゆっくりと口を開いた。
「美咲」
彼の声は、静かで、そして、どこまでも冷たかった。
「僕は、君に、もう何も感じない」
その言葉が、私の耳に届いた瞬間、私の世界は完全に崩れ去った。彼の瞳に宿る、何も映さない虚無の色。
「悲しいとか、怒りとか、憎しみとか、そういう感情も、もう、どこにもないんだ」
彼の言葉は、私の中に残っていた最後の希望の光を、完全に消し去った。
「君は、もう僕にとって何でもない人だ」
その言葉は、私の心に、深く深く突き刺さった。私の存在が、彼にとって、もはや意味をなさない。そう突きつけられた瞬間、私はその場に崩れ落ちた。嗚咽が止まらない。私は、自分の過ちの大きさと、悠真を取り戻せない絶望に、打ちひしがれた。
それからの高校生活は、私にとって、ただの灰色の日常だった。誰とも会話せず、常に一人で時間を過ごす。かつて私を輝かせた友人たちも、私を特別扱いしてくれた蓮も、誰もいない。私の周りには、ただ冷たい空気が張り付いているだけだった。
そんな孤独な日々の中で、私は遠くから悠真の姿を見ることが増えた。彼は、以前とは見違えるように変わっていた。プログラミングに没頭し、校外のコンテストで入賞したという噂も聞いた。彼の瞳には、かつての不安な色はなく、新しい目標を見つけた輝きが宿っていた。
そして、彼は新しい少女と共に歩いていた。内気だけれど、芯の強い、穏やかな笑顔の少女。悠真と彼女が、楽しそうに笑い合っている姿を見るたびに、私の心は、静かに、そして深く、痛んだ。彼が手にしたのは、私が彼を裏切ってまで追い求めた「華やかさ」などではない。真の信頼と愛情に基づいた、温かく、確かな幸せだった。
私は、もう二度と、悠真の隣に戻ることはできない。彼が手にした幸せは、私の手から滑り落ちてしまった、かけがえのないものだ。私は、ただ、自分の過ちの大きさを噛み締めながら、孤独な高校生活を送るしかなかった。あの頃の私には、悠真の価値も、本当の幸せの意味も、何も見えていなかったのだ。そして、その代償は、あまりにも大きすぎた。