第5話 過去と、それでも続く現在
夏休みも終わりに近づき、高校は再び日常の喧騒を取り戻し始めていた。神崎悠斗の生活は、相変わらず淡々としていた。クラスメイトたちは夏休みの思い出を語り合い、日焼けした肌を見せ合っているが、悠斗はそれらを遠巻きに眺めているだけだった。彼の心は、まるで防音室の中にいるかのように、外部の騒音を一切遮断していた。
ある日の放課後、悠斗は図書館で受験勉強に集中していた。外はすでに薄暗くなり始め、図書館特有の静けさが一層深まる。彼の周囲には、数人の生徒が残っているだけだった。
その時、図書館の入り口付近で、小さく、しかし聞き慣れた声がした。
「里奈…本当に、それでいいの?」
悠斗は、その声にわずかに反応したが、顔を上げることはなかった。田中里奈。そして、彼女の友人だろうか。
「もういいのよ。どうせ私なんて、誰からも必要とされてないんだから」
里奈の声は、以前のような芯の強さを失い、か細く、そしてどこか諦めたような響きがあった。悠斗は、彼女たちの会話を、ただのBGMのように聞き流していた。
「そんなことない! 神崎君だって、きっと…」
「やめてよ! あの人は、もう私のことなんて見てない。私、あんなにひどいことしたのに、彼は何も言ってくれない。怒ってさえくれないのよ?」
里奈の声が、微かに震える。悠斗は、内心で鼻で笑った。怒る? 復讐する? そんな感情は、とっくの昔に彼の心から消え去っていた。彼女たちに対する彼の感情は、完全に「無」なのだ。何の興味も、何の感情もない。それが、里奈にとっては、何よりも残酷なことなのかもしれない。
「私は…私は、ただ、もう一度、彼に許してほしかっただけなのに…」
里奈は、ほとんど泣き崩れそうな声でそう言った。悠斗は、ペンを動かす手を止めなかった。彼女の涙も、彼女の苦しみも、彼には届かない。彼の心は、鉄壁のように閉ざされていた。
その日の夜、悠斗は自室でパソコンに向かっていた。大学の資料を検索し、自分の将来の道筋を具体的に描こうとしていた。彼の頭の中は、常に未来のことだけを考えていた。過去は、もう振り返る必要のないものだった。
すると、SNSの通知が鳴った。悠斗は、普段SNSを見ることはない。だが、その通知は、何となく彼の目を引いた。差出人は、西村葵だった。彼女は、かつて悠斗がフォローしていたアカウントの一つだったが、もう何年も見ていなかった。
何気なく、その投稿を開いてみた。そこには、葵の自撮り写真が投稿されていた。しかし、そこに写っていたのは、かつての輝くような笑顔の葵ではなかった。顔色は悪く、目は窪み、その表情からは生気が感じられない。そして、その写真の下には、短い文章が添えられていた。
「もう、全てがどうでもいい。こんな私を、誰も見てくれない」
悠斗は、その投稿を眺め、すぐにウィンドウを閉じた。彼女がどうなろうと、彼には関係のないことだ。彼は、彼女を救う義務も、彼女に手を差し伸べる必要もない。
しかし、彼の脳裏には、なぜか葵の顔が焼き付いて離れなかった。彼女が、以前の自分と同じように、絶望の淵に立たされているように見えた。だが、それは悠斗の感情を揺さぶることはなかった。ただ、事実として、その状況を認識しただけだった。
翌日、悠斗は学校へと向かう途中、意外な人物と遭遇した。吉川美咲だった。彼女は、学校の近くの公園のブランコに座っていた。夏休み中、学校に来ていないという噂は聞いていたが、実際に彼女の姿を見たのは久しぶりだった。
美咲の姿は、以前とは別人のようだった。髪は乱れ、服もよれよれで、その表情は完全に生気を失っていた。彼女は、まるで抜け殻のようにブランコに揺られ、虚ろな目で宙を見つめていた。
悠斗は、美咲の姿に気づいたが、そのまま通り過ぎようとした。関わる必要はない。そう思っていた。しかし、その時、美咲が悠斗の方に視線を向けた。彼女の目は、悠斗の姿を捉えると、微かに揺れた。
「神崎…君…?」
美咲の声は、か細く、ほとんど聞こえないほどだった。悠斗は、立ち止まった。そして、美咲の顔を、何の感情も込めずに見つめた。美咲は、ゆっくりとブランコから降りた。
「あの時…本当に、ごめん…なさい」
美咲は、絞り出すような声でそう言った。その声には、深い後悔と、そして絶望の感情が混じっていた。悠斗は、美咲の言葉を聞いても、何の感情も動かなかった。彼には、美咲を許すことも、彼女を責めることもできなかった。ただ、そこにいる美咲を、認識しているだけだった。
美咲は、悠斗の無反応さに、さらに絶望的な表情を浮かべた。彼女は、悠斗の視線から逃れるように、ゆっくりと顔を伏せた。
悠斗は、美咲から視線を外すと、何も言わずに再び歩き出した。美咲は、悠斗の背中を見つめながら、その場で立ち尽くした。彼女の目からは、とめどなく涙が溢れ落ちた。