第1話 完璧な日常の綻び
俺、田中健太の人生は、はたから見れば順風満帆そのものだった。大手企業勤務、それなりの役職と収入。そして何より、美人で優しい妻、美咲との幸せな結婚生活。世間一般で言う「勝ち組」というやつだ。
美咲とは大学のサークルで出会った。彼女の控えめな笑顔と、芯の通った優しい眼差しに一瞬で心を奪われた。猛アタックの末、ようやく付き合うことになり、それから三年。俺たちは結ばれた。
新婚当初は、まさに夢のような日々だった。朝は美咲の手料理で目覚め、夜は仕事の疲れを癒してくれる彼女の笑顔が待っている。週末は二人でカフェ巡りをしたり、ドライブに出かけたり。喧嘩らしい喧嘩もなく、穏やかで満たされた時間だけが流れていた。
だが、そんな完璧な日常に、いつしか小さな綻びが生まれ始めていたのかもしれない。きっかけは、俺の仕事が忙しくなったことだ。新規プロジェクトのリーダーを任され、残業や休日出勤が当たり前になった。美咲との時間も、自然と減っていった。
「ごめん、美咲。今日も遅くなる」
電話口でそう告げると、美咲はいつも「大丈夫よ。体に気をつけてね」と優しく言ってくれた。その声に甘え、俺は仕事に没頭した。しかし、心のどこかで、美咲が寂しがっているのではないかという一抹の不安があったのも事実だ。
ある日、ようやく早く帰宅できた夜、リビングのソファで美咲がうたた寝をしていた。手に持っていたのは、俺がプレゼントした高級ブランドのバッグのカタログ。開かれたページには、新作のショルダーバッグが掲載されていた。
「これ、欲しいのか?」
俺が声をかけると、美咲ははっと目覚め、少し慌てた様子でカタログを閉じた。
「あ、健太。おかえりなさい。ううん、ただ見てただけ」
そう言って笑う美咲の顔に、どこか寂しげな影が見えた気がした。俺は、「今度、一緒に見に行こうか」と提案したが、美咲は「いいのよ、気にしないで」と首を振った。その時、俺は彼女のささやかな願望に気づいてやれなかったことを少し後悔した。
その頃から、美咲は少しずつ変わっていったように思う。以前は俺が帰宅する時間に必ず起きて待っていてくれたのに、疲れて眠ってしまうことが増えた。会話も減り、俺が話しかけても、上の空のような返事が返ってくることもあった。
ある週末、久しぶりに二人で映画でも見に行こうかと誘うと、美咲は珍しく乗り気でなかった。
「ごめんね、健太。今日は少し疲れてるの。家でゆっくりしたいな」
そう言われ、俺は「そっか、無理しなくていいよ」と答えた。しかし、その日の美咲の顔には、疲労というよりは、何かを隠しているような不自然な笑顔が浮かんでいたように見えた。
俺は、美咲が何か悩んでいるのではないかと考えた。もしかしたら、俺が仕事ばかりで構ってやれないことに不満があるのかもしれない。そう思い、次の休みには有給を取って、美咲を旅行にでも連れて行こうかと計画し始めた。
そんな矢先、会社に一本の電話がかかってきた。発信元は、美咲の携帯電話からだった。
「はい、田中ですが」
俺が出ると、電話の向こうから聞こえてきたのは、知らない男の声だった。
「もしもし、田中さんの奥さん、体調が悪いみたいで、今、病院にいるんですが…」
心臓が締め付けられるような感覚に陥った。美咲が?病院に?俺は何も知らされていない。
「どちらの病院ですか?何かあったんですか?」
動揺を隠せないまま問い詰めると、男は淡々と状況を説明し始めた。なんでも、美咲がカフェで倒れたらしい。たまたまそこに居合わせたのが自分だ、と。
「あ、すみません。私、斎藤と申します。彼女の…友人です」
斎藤と名乗る男の声は、妙に落ち着き払っていた。友人と聞いて、俺は少し安堵したものの、同時に違和感も覚えた。美咲の友人で、俺が知らない男などいただろうか。そして、なぜ美咲は俺に連絡せず、この男が電話してきたのか。
急いで病院へ向かった。美咲はベッドの上で眠っていた。顔色は少し青白いが、大事には至っていないようだった。斎藤と名乗る男は、美咲のベッドサイドに立っていた。身長は俺と同じくらいで、細身だがどこか頼りがいのある雰囲気を持っていた。
「奥さん、貧血だったみたいです。しばらく休めば大丈夫でしょう」
斎藤はそう言って、俺に軽く会釈した。俺は礼を言い、彼に尋ねた。
「あの、美咲とは、どちらで知り合ったんですか?」
斎藤は少し目を伏せ、曖昧な笑みを浮かべた。
「ええ、まあ、ひょんなことから、共通の趣味で知り合いまして…」
その言葉に、胸の中にざわめきが広がった。共通の趣味?美咲が俺に隠れて、男の友人と会っていたというのか?そして、なぜこの男は、美咲の携帯から俺に電話してきたのか。様々な疑問が頭の中を駆け巡った。
美咲が目を覚ますと、俺が傍にいることに驚いたようだった。そして、斎藤の姿を見て、一瞬、戸惑いの表情を見せた。
「健太…どうしてここに…?」
美咲のその言葉に、俺は確信した。彼女は俺に、何かを隠している。そして、その「何か」の中心に、この斎藤という男がいるのだと。完璧だと思っていた俺の日常は、音を立てて崩れ始めていた。疑念という名の亀裂が、確実に俺たちの間に走っていた。