第2話 隠された影
病院から帰宅した後も、俺の心には拭いきれない疑念が渦巻いていた。美咲は体調が回復すると、俺の仕事が忙しいせいで心配をかけまいと、斎藤に連絡先を教えていたのだと釈明した。だが、その説明はどこか歯切れが悪く、俺の心を完全に納得させるには至らなかった。
斎藤という男の存在が、俺の日常に静かに、しかし確実に影を落とし始めていた。美咲は、以前よりも携帯電話を気にするようになった。俺が傍にいると、すぐに画面を伏せたり、席を立って電話に出たりすることが増えた。
ある夜、美咲がシャワーを浴びている間に、テーブルの上に置かれた彼女の携帯が光った。通知には、見慣れない番号からのメッセージが表示されている。ふと、嫌な予感がして、俺は手にとってしまった。
「今日、楽しかったね。また会いたいな」
そのメッセージには、差出人の名前がなかった。しかし、その内容から、相手が男であることは明白だった。そして、その男が斎藤であるという確信が、俺の胸に突き刺さった。手が震えた。信じたくない。美咲が、俺を裏切っている?
俺は、すぐに携帯を元に戻した。何も見ていないふりをして、平然を装った。美咲がシャワーから出てきた時、俺はいつもと変わらない笑顔で迎えた。しかし、俺の心の中は、すでに疑心暗鬼の濁流が渦巻いていた。
それから数日、俺は美咲の行動を注意深く観察するようになった。彼女は相変わらず、携帯電話を肌身離さず持ち歩き、俺の目を盗んでメッセージのやり取りをしているようだった。休日の外出も増え、俺が理由を尋ねると、「友達とランチ」「買い物」と曖昧な返事が返ってくる。
ある日、俺は会社を早退し、美咲の後をつけた。彼女は、いつもと同じように「友達とランチ」と言って家を出た。俺は少し距離を置いて、彼女の背中を追った。美咲が向かったのは、以前から彼女が気に入っていた、少しお洒落なカフェだった。
カフェの前に着くと、美咲は店の入口で誰かを待っているようだった。数分後、一台の車が店の前に停まり、中から出てきたのは、あの斎藤だった。
斎藤は美咲を見つけると、親しげに手を振った。美咲も笑顔でそれに応え、二人はカフェの中へと入っていった。俺は、店の窓越しに二人の姿を目で追った。テーブルに座った二人は、楽しそうに会話を交わし、時折、美咲が斎藤の腕に触れる仕草を見せた。その光景は、どう見ても「友人」のそれではなかった。
俺の心臓は、激しく鼓動していた。怒り、悲しみ、そして、途方もない絶望が押し寄せてきた。頭の中は真っ白になり、足元が崩れ落ちそうになった。俺の愛する美咲が、俺以外の男と、こんなにも親密な関係を築いていたなんて。
その場に立ち尽くす俺の目に、美咲が斎藤と顔を寄せ合い、親密な笑みを浮かべる姿が飛び込んできた。それは、俺に向けられることのなくなった、心からの笑顔のように見えた。
その夜、俺は美咲に何も言わなかった。問い詰める勇気がなかったわけではない。ただ、どう問い詰めたらいいのか、何から話せばいいのか、わからなかったのだ。俺たちの間に横たわる、あまりにも大きな溝を前に、言葉が見つからなかった。
翌日、俺はいつも通り会社へ行った。だが、仕事は手につかなかった。美咲と斎藤の姿が、脳裏から離れない。どうすればいいのか。この関係を、どう修復すればいいのか。あるいは、もう修復など不可能なのか。
その日の午後、俺の携帯に一本の電話がかかってきた。見慣れない番号だったが、嫌な予感がした。電話に出ると、聞こえてきたのは、紛れもない斎藤の声だった。
「もしもし、田中さんですか?実は、奥さんのことなんですが…」
斎藤の声は、相変わらず落ち着き払っていた。その声が、俺の神経を逆撫でする。美咲のこと?一体何を話すつもりだ。
「何か、御用でしょうか」
俺は、精一杯平静を装って答えた。斎藤は、少し間を置いてから、ゆっくりと話し始めた。
「実は、美咲さんのことで、お話ししたいことがありまして。正直、田中さんにも知っておいていただきたいと思いましてね」
斎藤の言葉に、俺の心臓は激しく跳ね上がった。一体、何を話すつもりだ。美咲と斎藤の関係を、俺に白状するつもりなのか。それとも、さらに、俺の想像を絶するような事実が隠されているのか。
俺は、斎藤の言葉の続きを、まるで判決を待つ被告人のように、固唾を飲んで待った。その沈黙が、俺の心をさらに深く蝕んでいった。