第8話 (美咲視点)第三話:崩れゆく居場所
健太の言葉通り、私の実家が営む旅館は、あっという間に奈落の底へと転がり落ちていった。彼が匿名で流した悪評は、瞬く間にインターネット中に拡散され、私たちの旅館の信用は、音を立てて崩れていった。
「美咲、今月の予約、ほとんどキャンセルになっちゃったよ…」
父が憔悴しきった顔でそう告げた時、私は自分の耳を疑った。たった数日で、これほどの状況に陥るなんて。信じたくなかった。私の心は、凍り付いたようだった。
健太は、私の知る健太ではなかった。かつて私を優しく包み込んでくれた彼の瞳は、冷酷な光を宿し、私を徹底的に追い詰めることに喜びを見出しているようだった。彼の言葉は、常に私の心の最も弱い部分を突き刺し、私を絶望の淵へと突き落とした。
「これも、君が蒔いた種だ」
健太はそう言って、私を嘲笑うかのように見つめた。その視線に、私は身がすくんだ。
従業員たちは、不安そうな顔で私や両親の様子を窺っていた。そして、何人かは、不安に耐えきれず、辞職を申し出た。彼らの申し出を断ることはできなかった。当然の選択だ。私たちが、彼らの生活を保証してやれないのだから。
旅館は、閑散としていた。かつては賑やかだった廊下も、客室も、今はただひっそりと静まり返っている。私たちが代々守り続けてきたこの場所が、私の過ちによって、壊されていく。その事実が、私の心を深くえぐった。
斎藤さんからの連絡は、やはり一切なかった。私が彼の会社に電話をかけても、もう彼がそこにはいないと告げられた。彼は、本当に全てを失ってしまったのだ。私のせいだ。私が、彼の人生を狂わせてしまった。
夜、誰もいないロビーで、私は一人、泣き崩れた。涙は枯れることなく、とめどなく溢れ続けた。私の愚かさ、私の身勝手さが、どれほど多くのものを破壊したのか。その重みに、私は耐えきれなかった。
そんなある日、健太から連絡があった。会って話したい、と。場所は、以前、健太とよくデートで訪れたカフェだった。
カフェのドアを開けると、健太はすでにそこにいた。彼の前には、コーヒーカップが一つ。彼は、以前と変わらず、少し疲れたような顔をしていたけれど、その瞳の奥には、冷たい光が宿っていた。
私は、彼の前に座ると、自然と頭を下げた。何を言えばいいのか、わからなかった。謝罪の言葉は、もういくら口にしても、彼の心には届かないだろう。
「ごめんなさい…」
私がそう呟くと、健太は鼻で笑った。
「君のその言葉に、何の価値があるというんだ。君は、俺に全てを奪われた時の痛みを、理解できるのか?」
彼の言葉は、まるで鋭利な刃物のように私の心を切り裂いた。私は、ただ涙を流すことしかできなかった。
「斎藤は、もうこの街にはいない。婚約者にも捨てられ、居場所を失った。君もまた、その旅館を失うだろう」
健太の言葉に、私は顔を上げた。旅館が、なくなってしまう。私の唯一の居場所が。
「やめて…どうか、旅館だけは…」
私は、必死に懇願した。旅館は、私にとって、ただの建物ではなかった。私の家族の歴史であり、私の人生そのものだった。
しかし、健太の表情は変わらなかった。
「君が俺に与えた苦しみを、君も味わう番だ。これは、君への、俺からの餞別だ」
健太の言葉に、私は絶望した。彼の復讐は、決して止まらない。彼は、私を徹底的に追い詰めるつもりなのだ。
そして、その言葉通り、数日後、旅館は閉鎖に追い込まれた。長年、旅館を支えてきた両親は、憔悴しきっていた。私のせいで、彼らの人生までもが狂ってしまった。
私は、もう、どこにもいられない。健太にも、斎藤さんにも、両親にも、そして、私自身にも、顔向けできない。
私は、全てを失った。愛する夫、心を許した相手、そして、私の居場所。全てが、私の手からすり抜けていった。
あの頃の私には、なぜ健太が、私の寂しさに気づいてくれなかったのか、理解できなかった。でも、今はわかる。私が、彼に伝える努力を怠ったからだ。そして、安易に別の男の優しさに逃げたからだ。
私の心の隙間を埋めてくれたはずの斎藤さんは、結局、私を奈落の底に突き落とす男だった。彼の優しさは、甘い罠だったのだ。
私の物語は、完璧な日常から始まったはずだった。でも、私の愚かさが、その日常を、そして私の人生を、取り返しのつかないバッドエンドへと導いてしまった。
もう、何も残されていない。残されたのは、深い後悔と、癒えることのない傷痕だけだ。